無職のお仕事

かれこれ1年半、働くということをしていない。

 

 

自分が無職期間に何をしていたのか、忘れないうちに書き残したいと思っていた。

現在は、ゆるく就職活動中なので、時間がある今のうちにブログを書くことにする。

 

 

無職というものは、実は適性があって、仕事が嫌だと言う人でも、「働いていないと暇を持て余して落ち着かない」「罪悪感で遊びに意欲的になれない」なんて人は案外多い。

これは、実際に経験してみないと、分からない適性かもしれないなと思う。

 

結果的に、自分には無職の適性があるということが分かってしまったのだけど、長期的に無職の人間が、どういう生活を送っているのかを、気軽に紹介してみたいという訳なのです。

 

 

 

1.無職の見通し

2.無職の暮らし

3.無職のお仕事

 

 

 

1.無職の見通し

 

 

無職にとって、いちばんの問題は、「一体いつまでお金が持つのか」ということだと思う。

 

 

私は、一人暮らしの無職である。

 

人間にはそれぞれの環境があって、人によって切れる手札も様々だと思う。

自分の場合は、家を引き払って帰れる実家なし、金銭的に支援してくれる家族や後援者なし、という状況ではあったものの、使える制度が多かったり、事務手続き得意だったりする「自分のメリット」を最大限に活用して、生活を維持している。

 

 

無職になるにあたって、いちばん最初に着手したことは、家計の把握である。いつまで無職でいれるのか。いつまで無職でいたいのか。

 

自分の場合は、持病の治療と体調の立て直し、やりたい勉強と遊び、大きく分けてこの二つのために、どうしても長期的な休みが欲しかったのである。無職もビジョン大事。安心して休むためには、やっぱりお金である。

 

 

まず初めに、収入と支出を中長期的に把握すること!

家計簿をつけることで、月々の固定支出と変動支出を割り出し、年間の予算を組むのである。

基本的なことだけど、固定支出の見直し、いらないサブスクの解約、絶対に必要な臨時支出の整理(賃貸契約更新料、保険料、冠婚葬祭関連など)をする。

 

 

次に、自分の財産と負債の整理。

 

通帳の残高は全て併せていくらあるか、奨学金などの借金は残りどれだけか。

家財道具も、要らないものは売ったり捨てたりして、置いておくものも価値を把握しておく。いざという時に、売ったらお金になる機材が、どれくらいあるか、とか。

 

 

家計管理の仕方については、何冊か本を読んだ上で、自分に合ったスタイルを構築すべく、最初の半年くらいは試行錯誤し続けました。意外と真面目な無職。

 

本当は、無職じゃなくても、家計は把握しておくべきなんだけど、働いていると忙しいし、家計管理は軌道に乗るまでが大変なので、、、20代独身だと、先送りにしちゃいがちだよねぇ。

 

でも、自分なりにしっかり管理できるようになると、漠然としたお金の不安によって、自分のキャパが食われちゃうようなこともなくなって、生活はめちゃくちゃ快適になります。

 

 

 

2.無職の暮らし

 

 

自分の家計を把握して、今後の見通しも立ったところで、ようやく日々の暮らしに想いを馳せることが出来るようになった。

 

働いている頃は、毎日が忙しすぎて、無事に一日を終えるだけで必死だった。

せっかくの無職期間だ!自由をとにかく謳歌して、理想的な生活を送るのだ!

 

私の理想の生活は、生活リズムが整っている、文化的な暮らしである。

 

文化的な暮らし、といっても、あまりにも抽象的すぎるので、やりたいことリストを作って、見直したりしてみる。やりたいことの優先順位をふんわり付けてみる。

 

自炊がしたい、パンやケーキを焼きたい、家庭菜園をしたい、日常に運動を取り入れたい。読みたかった本に手をつけたい、趣味の勉強がしたい、美術館や寺社仏閣に行きたい…。そんなシンプルなことばかりで良いのだと私は思います。

 

特に、お金がかかることより、時間がかかること。

これこそが、会社員時代に出来なくて、無職時代に出来たことだと思う。

 

 

無職時代の思い出は、これから先も何度も思い出すのだろうなぁ。久し振りに心の底から幸せだと思える日々を過ごして、生活をすることが好きになった。

 

ペットと一緒に過ごす時間が長くて嬉しかった。部屋の掃除や生活の習慣作りに時間を割くことが出来て、友達を家に招くことが増えた。余裕を持って病院に通院できて、後回しにしていた念願の歯医者にも行けたし、検査や手術の予定も気ままに入れられた。医療費は凄いことになったけど…。

 

映画をたくさん観た。中古カメラを買って写真を撮るようになった。3000ピースパズルを2ヶ月かけて完成させたり、京都水族館の年パスを買って頻繁に通ったり。楽しかったねぇ。なんてことない日常が、本当に尊い日々なんだと感じていた。

 

一人の時間も、友達や家族との時間も、どちらも大切に出来る人間のままでいたいな。

季節を感じるイベントや、思い出になるような記念日を過ごすこと、仕事をしていたら全部蔑ろにしてしまいがちだったけど、本当に大切なことだったんだなとつくづく思う。

 

働き始めた未来の自分も、なんとか暮らしを大切に、幸せに生きていられますように。

 

 

 

3.無職のお仕事

 

 

「仕事が出来る人間になるより、出来る無職になる方がハードルは低い!」

 

そう思って、やるべきことは、仕事のように割り切って、わしわし片付けることにしました。

 

 

税金・年金・保険料の手続きや、使える制度は、いつも抜かりなく調べている。大体の物事は、先送りにしたり、期限が切れたりすればするほど、手間がかかって面倒臭い。瞬殺大事。コスパ最強。それが出来たら苦労しないんだけど、まぁ、苦労しながら優先度上げてなんとかやってるという感じです。

 

最低限の無職のお仕事は、それだけだけど、その他にも、やっていることはたくさんある。

 

 

仕事をしていないと、どうしても社会との繋がりを失ってしまいがちである。孤立。

どうもそれは、精神的に良くないのである。視野がどんどん狭くなったりもする。

 

無理のない範囲内で、自分が何か貢献できることを探す。これは、言ってしまえば、自分のためにもなるからとやっているようなもの。経験も価値になるのです…。

 

 

友達の勉強に付き合ってカフェで色々教えたり、知人のお子さんのお世話をしたり。仕事で忙しい友達の家事代行をしたり、宅配を代理で受け取ったりもしている。平日にしか出せない郵便書留を代行で出したりなんかも。

 

他にも、一人暮らしの友達の家で家具の組み立てをしたり、引っ越しを手伝ったり、ワクチン接種翌日の体調不良のサポートで買い出しをしたりもした。他にも、京都に家を残して遠方に住んでいる友達の郵便物を管理して転送したり、調べ物を頼まれたり、無職・休職者の相談に乗ったり、手続きについて教えたり、手伝ったり。

 

 

定期的にパタパタと、人の何かを手伝っている。それが楽しくて、便利屋さんになりたいなぁ、なんて思ったりもしたくらい。

 

まぁ、でも、これは仕事ではないので。ライフワークとして、狭い範囲でやっている。

それでも、ごはんを奢っていただいたり、ものをいただいたり、何らかの形で謝礼をくれる方が多い。とっても嬉しい。誰かに感謝されるということは、実は、生活にとって必要なことだと思う。

 

 

きっと、無職の適性があるか否かで、意外と大切なのはここで、圧倒的な自己肯定感を持っているか、そうでなければ他者と繋がって暮らしているか、このどちらかが長期無職には必要な資質なんじゃないのかな……と個人的には思っています。

 

 

 

 

以上が、無職による生活の雑記でした。

 

結局、暮らしなんてものは、環境や本人の趣味嗜好によって大きく左右されるものなので、これが正解!なんて言えるものでもないのだけど、生活の記録というのは案外貴重なものなので、未来の自分に向けて残す意味も込めて、今回のブログを書きました。

 

 

無職は、ちゃんと自分の現状に向き合えば、結構楽しくやることが出来る。

私は、結構「自分に向き合いたがり」な性格なので、向いていたのかなぁ。

運や環境も大切なんだけど、、、自分の周りには、前向きな無職が結構多かったのが印象的でした。無職の周りには、何故か無職が集まるんだよねぇ。不思議だね。

 

 

私は、無職になって感じたことや得たものが、たくさんあって、この不思議な時間の流れ、永遠のようでいて、確かに流れていく時間、ただ毎日を繰り返すだけで「あぁ尊い」と感じられること、人間はいつだって自由になれること、忘れたくないなぁと思っています。

 

自分に残された無職期間は、きっとそう長くはないと思うので、悔いなく、やりたいことをやって、のびのびと暮らしたい所存です。冬に弱い身体なので、体調管理も忘れずに。

 

 

次は、きっと労働者の姿でお会いしましょう。

働いていなくても、働いていても、きっと自分は素晴らしいのだ!

胃腸炎9ヵ条

久し振りに胃腸をバチバチに壊している。



2018年夏にラーメンの食べ過ぎで初めて胃腸を壊してからというもの、毎年必ず夏になると、胃腸炎が猛威を奮うようになった。どうして夏なんだろうなぁ。ちなみにラーメンはトラウマでほぼ食べられない。



せっかくの機会なので、前にも書こうとしていた胃腸炎ブログを勢いで更新してみることにしました。胃腸が弱い方々の参考に少しでもなれば幸い……。

※主に慢性胃炎の人を想定しています。
※個人の感想なので最適解は病院へGO!


もし胃腸炎が長引いたら、次はレトルトお粥の食べ比べブログでも書こうかな……(需要ゼロ)



それでは本題へ………………





~胃腸炎9ヵ条~

1.脱水症状は怖い
2.飲み物は温ポカリ
3.お粥と梅干を食べよう
4.付き合いの食事は諦める
5.陀羅尼助丸はイイゾ
6.体重計に乗ると楽しい
7.親身になってくれる消化器内科へ
8.家族や友人に頼るべし
9.胃腸と一生付き合う覚悟を持つ





1.脱水症状は怖い

腸炎でいちばん怖いのは脱水症状だと思っています。嘔吐や下痢で水分が持っていかれてしまうので、体重がめちゃくちゃ減る。

脱水になると、汗だくになったり、ふらついたり、身体に力が入らなくなったり、震えが出たりします。吐くものがなくても吐き気が止まらないぜ!

しんどいからといって、水分を補給せずに倒れていると、まもなく動けなくなり気を失います。マジです。こうなると人を呼ぶしかなくなるので、そうなる前に、なんとか水分を摂ろう!!!(これが難しい)



2.飲み物は温ポカリ

水分補給はポカリスエットがおすすめ。経口補水液、その他スポーツ飲料なども良いはず!
あまりにも頻繁に脱水になるので、私はベッド下に新品のポカリを数本常備しています。積年の知恵。

水分・ミネラルが大切とはよく言うけれど、体感的にもその通り……。普通の水を飲んでいるだけでは、脱水時の体調悪化は全然止まりません。
あと、ガブ飲みすると胃が気持ち悪くなるので、頑張ってこまめに飲むようにすると良い気がします。

腸炎のときは、レンジでぬるく温めたポカリスエットが身体に沁みます。飽きてきたら温かいリンゴジュースも飲むよ。



3.お粥と梅干を食べよう

しつこいくらい胃を休めるために、長めのお粥生活を送ります。
いちばん長いときは、3ヶ月間ほぼレトルトお粥しか食べられず、体重が5kg落ちました。職場の昼食もずっとお粥にしていて、引かれた。

どうしても味に飽きるので、チャリ圏内のあらゆるスーパーで、色々なメーカーのレトルトお粥を買ってきて食べ比べしていました。

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結論、味の素 or キューピーの白がゆがTOP2だと思っている。

鮭がゆ・玉子がゆは美味しいけど、あれは回復期の食べ物だよ。不調期は絶対に白がゆ!!!
漬物も色々食べあわせたけど、梅干が断トツ1位です。優しい。次点は沢庵かな……。

ちなみに、梅干は和歌山県の中田食品株式会社のものが群を抜いて美味しいので、スーパーで探してみてください。よく見ると、きっと置いてると思います。



4.付き合いの食事は諦める

これで何度吐いたことか。

吐くほど行きたいんだけど、胃へのダメージは絶大です。大人しく我慢して、早く治そうね。



5.陀羅尼助丸はイイゾ

おすすめの胃腸薬は陀羅尼助丸です。

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色々なメーカーから出ているよ。
メーカーごとの飲み比べは、まだしてないよ。

見た目が気持ち悪いし、1回に20丸も飲まなきゃいけないけれど、個人的には非常によく効く。飲んだことない慢性胃腸炎の方は、是非お試しあれ。

ただ、これを飲んで間もないうちに嘔吐すると、本当に見た目がグロいです。

あと、全然関係ないけど、キャベジンは、蓋を開けた瞬間にキャベツ臭すぎて吐いたことがあるので、私はめちゃくちゃ苦手です。残念ながら1瓶無駄にした。トラウマです。

運命の胃腸薬に出会いたいよね…………。



6.体重計に乗ると楽しい

めちゃくちゃ体重が減ってる~!!!!!

逆に、これ以外に胃腸炎で楽しいことはありません。



7.親身になってくれる消化器内科へ

腸炎で苦しいとき、胃腸炎が長引き始めたとき、必ず消化器内科へ行くことをおすすめします。

自分の体験や知人の話を総括して思うのは、消化器内科の先生に親身になって貰えなかったケースがまぁまぁあるということ。良い先生もたくさんいると思うけど!

症状がバリバリ出てる最中じゃないと、普通に「胃が痛くて、食事が食べられなくて……お腹を毎日下すんです……」と言っても、その重さが伝わりきっていないことが多いような気がします。
そのために、症状を軽く見積もられてしまい、後日救急搬送されて手術をした知人もいたり。その人は慢性虫垂炎だったけれど。

症状が重いひとは、大袈裟なくらい訴える!言いたいことはメモしていく!したい検査があるならハッキリ意思を伝えてみる!くらいが良いような。
親身になってくれる先生のところで、しっかり調べて向き合っていくのが大切だと感じます。

わたしも年々症状が悪化しているので、胃カメラとピロリ菌検査くらいはしたいなぁ……と思って、来週に病院に行くことにしました。胃潰瘍や胃癌じゃありませんように………。



8.家族や友人に頼るべし

慢性胃腸炎のひとは、日々の様々な場面で「胃腸!!!痛い!!!!無理!!!!!」と感じているはず。

家族や友人、身近な人達には、しっかり体調を理解して貰って、時には助けを求めることが大切だと思います。

心配をかけたくなくて、迷惑に思われたくなくて、ついつい一人で抱え込んでしまいがちだけど、助けてもらった分は、別のところでお返しできるように頑張ったら良いと思うので。甘え上手は、いつか甘えられ上手にもなるはずなのです……(?)

逆に、身近に体調不良の家族や友人がいる方は、気遣いつつ、心配しすぎず、いつも通りに楽しくそばにいてあげてほしいなぁ。
病人でも、病人扱いされすぎるのは気が滅入ることもあったり……塩梅が難しいのだけど。



9.胃腸と一生付き合う覚悟を持つ

これは自分の体感なのですが、一度マジで胃腸を壊すと、壊れる前の自分には戻れる気がしません。
なんだか鬱病と似ているような気もするね……?

慢性的に胃腸を壊しているひとは、一生それと付き合う覚悟を決める。この覚悟が出来るまでに2年くらいかかりました。

自分の身体に優しく優しく、常に8割運転でやっていこうね!何事もね!

これが9ヵ条の最後で、いちばん大切だと思うことです。





長々と胃腸炎の心構えについて書き綴ってきたけれど、まだまだ自分も上手くいかないことばかり。


腸炎仲間は、良いライフハックがあれば、教えてね!


あと、自分の周りには医者の友人が何かと多いので、明らかにこれはマズいという記述があれば、教えてください……(なるべく気はつけているけれど!)
その際は追記で修正する予定です。



半年振りのブログ、更新頻度ゆるめですが、また書きます。それでは、またどこかで。



元気に過ごそうね。

家賃2万の下宿に住んでいた‐2012

11月の寒さは厳しい。

 

毎年「11月ってこんなに寒かったっけ」と思う。人生何年やったって学習しない。

 

今年は母校の大学の学園祭がなくて寂しかった。
グラウンド中央のファイヤーと呼ばれる巨大な焚火を見て、確実に迫り来る冬の足音を、その温度と湿度で感じるのが好きだった。昼間しか行けなかった年もあったから、最後に見たのは何年前だろう。年齢を重ねると記憶が曖昧になる。

 
それでも、冷え込みが厳しくなり始める季節に必ず思い出す記憶がある。
今回のblogは、家賃2万の下宿に住んでいた、2012‐2013年の思い出話を少し。

 

 

 

 

2012年、大学1回生の私は、京都市左京区、北白川方面の浄土寺という場所で一人暮らしを始めた。
木造2階建て、築60年、和式便所。言ってしまえば、ボロアパートである。

 

キッチンは共同。風呂はタイル張りで浴槽はステンレス、大家さんがボイラーで沸かしているからと19~24時までしかお湯が使えない。水道水はうがいをするのも苦痛なレベルで錆の味がする。私は歯磨きのために2Lのミネラルウォーターを買っていた。あとはゴキブリが同時に3匹出現するレベルで衛生環境が劣悪だった。

 

鍵の立て付けが悪くて勝手にドアが開くとか、金縛りに遭うと必ず天井の一角に黒い影が現れるとか、共同のベランダでホームレスのおじさんが寝ていたことがある(私が干していたバスタオルを下に敷いて)とか、数あるエピソードは強いものばかり。

 


そう、何を隠そう、自分は貧乏学生だったのだ。

 

 

私が大学に入学した春、父親が突然くも膜下出血で倒れ、夢のキャンパスライフ!どころではなくなってしまったというのが実際の話で、多額の奨学金を借りながら、ギリギリ大学生活を形にするので精一杯だった。

 


最低限の服と教科書とギター、それだけを持って入居した家賃2万のボロアパート。
洗濯機は共同で使えたので助かったけれど、冷蔵庫もパソコンも布団も、家具や家電なんてひとつも持たなかった。18歳の夏のことだった。

 

 

 

今年、ふとした折に浄土寺に立ち寄る機会があり、このアパートを覗こうという気持ちになって裏道に入ったら、もう潰れてなくなっていた。今になれば、当時の記憶は遠い夢のようなものである。

 

 

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インターネット上に少し情報が残っていた。
この価格帯の物件の中では、かなりマシな部類だと思う。
(他に何件か内見に行ったら本当に人が住めなさそうな家が多数あった…)

 

 

 

冷蔵庫や布団がないと言っても、夏はまだ良かった。

大学生の食生活なんて、学食と牛丼屋とラーメンとマクド、あとは友達に誘われた食事で成り立っているようなもので、そもそも自炊なんて最初からカップラーメンくらいしか想定していなかった。布団が無くて、タオルを床に敷いて寝ていたけれど、身体がバキバキになっても若さがあったので耐えられた。

 


問題は、秋からその先である。

 

9月末には、自分が持っている服で山を作って、その中で眠ったりしていた。

それでも限界で、友達が余っているからとくれた夏用寝袋を使うようになった。
寝袋の寝心地の良さに感動しつつ、11月にはそれでも寒さが厳しくなり、バイト先のピザ屋の先輩に布団をもらった。

 

やっと人間らしい暮らしになってきたと思えたのも束の間、暖房のない部屋で初体験する盆地の冬に耐えられるはずもなく、毎晩、体温を上げるためにコンビニのカップ酒を飲んで布団の中で震えていた。
友達に「ロシア人かよ!」と笑われたり、サバイバルが得意な先輩が家にやってきては布団の下に段ボールを敷いて防寒してくれたり、ビニール紐で服が干せる場所を作ってくれたりしたのも、今くらいの季節だったような気がする。秘密基地作りみたいで楽しかった。一生忘れられない思い出だな。

 

 

寒さが厳しくなって、ピザ屋の安時給では今の生活を維持することしか出来ないことに気付いた私は、時給が高い夜のバイトに出るようになった。

半年先の引っ越しを夢見て、色々と思案しながら必死で働き始めた。稼げる仕事は楽しい。

24時以降に帰宅したら風呂は冷水しか出ないから、やかんで沸かした熱湯に水を混ぜて洗面で髪を洗い、絞った濡れタオルで身体を拭いて、ブルブル震えながら眠って、時には高熱を出したりしながらも、冬を越したのだ。

 

 

 

結局、しっかりと貯金をして家賃4万の綺麗なアパートに引っ越したのは2回生の夏だった。


冷蔵庫や洗濯機、パソコンなどの家電が最低限揃ったのもその頃で、やっと生活のスタートラインに立てたときには単位弱者となり果てて留年の現実味が目前に迫ってきたり、問題は山積みだったけれど、生活が、暮らしがあることが、本当に本当に嬉しかった。

 

 

 

裕福なひとには最初から与えられているもの、それが自分になくったって、手に入れる過程が宝物になることだってある。


家具や家電をくれた友達、先輩、食パンの耳を貰いに通ったパン屋のおばちゃん、限界だったときには友達や先輩の暖かい下宿でベッドを借りて眠り込んだ。起きたら家主が授業に出て不在だったこと、美味しい食事が出てきたこと。白米、味噌汁、カレー、親子丼、期限ギリギリのもやし炒め。

 

バイト帰り明け方北白川の坂、駆け上げる自転車。寒くて眠れなくて歩いた早朝の哲学の道、そこで遭遇した下半身露出狂のおじさん、手が届かなくて切れっぱなしだった風呂と便所の電球、トイレットペーパー買えなくてトイレ借りに行ってたファミマ、閉店間際に食べる福仙楼、全部が忘れたくない10代の記憶。

 

貧乏で苦しんだ人間のエゴかもしれないけど、苦労なんて買われてもしたくないけれど、あれはお金なんかじゃ買えない、本当の青春だったのだと思う。

 

 

 

 

8年も前の貧乏生活を思い出して、あの頃よりはずっと前に進めているよね?と勇気づけられることの多い人生だった。

 


実は今も人生の貧乏生活第2波に襲われていて、ノスタルジーどころではないのだけれど、それでもやっぱり当時よりは格段に良い生活が出来ている。


野菜や魚や米をくれる友達がいて、ごはんが余ったからと食事に招いてくれる友達もいて、心の奥底では何もお返し出来ない申し訳なさと闘いながらも、一人では生きていけないのだなぁと実感する。あの頃も、今もそうだ。

 

 

ちょっとした病気が悪化して、上手く働けなくなって、収入が減って、でも治療方針も目途が立ったから半年もすれば体調も軌道に乗るはず!と祈りながら、日々健康を意識した生活を送っているのが、私の今日この頃です。12月には勤務先を退職して、正式に無職になる。これから暫くが貧乏生活第2波の山場かな、と思う。

 

www.amazon.co.jp

 

お恥ずかしながら、初めてAmazonほしい物リストを作成しました。
春ぐらいに体調を崩したときに、困っていたら食料でも何でも送るから言ってほしい、とメッセージをくれた友人がたくさんいて、その時は全てお断りしたのですが、もうどうにもこうにもならない段階が迫ってきているので、そういった友人達のご厚意に少し甘えてしまおうかなと思いました。

 

今までの自分なら絶対にやらなかったと思うのだけど、手遅れになったらどうしようもないから。

詰む前にひとに甘える、元気になったら恩返しと恩送りをします、必ず。

 

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先週、大学時代の友人と遊んだ際に「ちゃんとリストが作成できてるか見てほしい」とリンクを共有したら、さっそく送られてきたモルモットの餌たち。この3箱で1.5ヶ月分くらいです。本当にありがたくて泣けてしまう。もちろん並行して節約も超頑張ります。

 

今回の貧乏生活第2波のなか、福祉の制度で利用したものも色々あるので、いつか気が向いたら数年後まとめようかな、とも思っている。社会福祉協議会にはとてもお世話になった。

もう駄目だ…となったときの知恵は結構蓄えているので、困っているひとの相談などもお待ちしています(?)

 

 

 

人間、一人では生きていけない。だけど、それでも良いと思えるようになった。

破滅に向かうことだって、一つの選択、でも自分の友達がそれじゃ少し悲しいから。

甘えることは勇気、みっともなくても、捨て身でも、ちゃんと生き延びる選択肢を選べるように頑張りたいよ。そう、私たちは頑張りたいのだ。

母3回忌によせて―介護は哲学

2020年9月8日、母の三回忌を迎えた。
一周忌の翌年が三回忌、法事を何回やっても忘れてしまう。時が経つのは本当に早いねぇ。

 

昨年も同じくらいの時期に1回忌によせて、blogを書いた。

 

owarin.hatenablog.com


多くの人に読んでいただけたようで、共感や、似た悩みを抱いている人達からメッセージをたくさん貰ったりしたのも良い思い出です。皆様、お元気ですか。

 

その時の記事は、母の精神疾患をテーマにしたものだったけど、介護自体についても書き残しておきたいな、と思い、今回また記事を書き残すことにしました。
(1回忌によせて、の記事を踏まえた内容になるので、未読の方は良ければそちらも是非)


私が介護をしたのは23~24歳のとき。
自分の周りで介護で苦労をしている人は、ほとんど50代以上のひとばかりだけど、これからの時代、多くのひとが経験することになるのかなと思います。

そんなとき、もしくは、身近なひとが介護で苦しんでいるとき、この記事が少しでも参考になれば、と思っています。あくまでも、個人的な体験の備忘録ではありますが。

 

 

介護、という言葉に、多くのひとはどんなイメージを持っているのだろうか。

 

介護に関係する仕事に就いているひと、自分や家族、友達が実際に介護を経験しているひとには、そのひとなりの具体的なイメージがきっとあるはずです。

 

私は、自分が実際に当事者になるまで、なんだか自分には関係ないこと、漠然と大変そうなこと、歳を取ってから寝たきりになること、ぐらいのイメージしかなく、そもそも介護について何か考えを抱いたことなんてなかったような気がします。


それが、まさに青天の霹靂、自分の身に突然降りかかってくるなんて。


知識ゼロ、周りにアドバイスをくれる経験者もゼロ。暗中模索しながら始めた介護。
いま思い返しても特に大変だったのは以下の4つでした。

 

1. 事務手続きの多さ、福祉制度への知識不足
2. 圧倒的金銭の不足
3.仕事との両立
4.家族のメンタルヘルス、分担と共有


あんまり長すぎる記事にならないように努力するので、最後まで読んでもらえると嬉しいな。

 

 

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1.事務手続きの多さ、福祉制度への知識不足


母が入院して検査が進み、ステージⅣの癌であることが判明してからは、ひたすら見慣れぬ手続きに追われる日々となった。


入院の同意書、保証人の記入捺印、検査がある度に呼び出されて説明を聞き同意書記入。
聞きなれない医療用語を必死でメモして、ググって、なんとか理解する日々を過ごす。


病院に行くたびに、医師、看護師、ソーシャルワーカー、様々なひとたちが矢継ぎ早にやってきては色々な説明をされて、要介護認定の申請だとか、高額療養費制度の利用だとか、限度額認定証の発行だとか、自立支援医療障害者手帳障害年金の申請をしたらどうかとか、山積みの事務手続きが発生した。

 

なんやねんそれは!!!!と思う制度ばかりで、説明も分かりづらく、
今は全部、どういう制度か分かっているけれど、当時は何が何だか分からず、しかもそれぞれ、問い合わせ先や申請先が違ったりして、脳のキャパシティが完全にオーバーしていた。


毎回、病院帰りは姉と喫茶店に寄り、貰った資料を掻き分けながら、「これは私が調べるから、これはそっちで調べてもらって…」と分担をして、帰宅後に厚生労働省全国健康保険協会自治体の公式HPを見て調べ、理解して、共有した。

 

私の家庭では、父が高次脳機能障害で、そういった事務作業は20代の子供たちで全て片付けなければならなかった。もっと大人だったら、上手くできたのかなぁ。
家族代表として手続きにいくなかで、若いせいでナメられているのかな、と思う場面が多々あったりして、とても苦々しい気持ちになった。思い出すと、いまでも苦しくなる。

 

 

2.圧倒的金銭の不足


病気になって入院すると、とてもお金がかかる。


それはあまりにも当然のことだけど、私たちは実家の家計状況を全く把握していなかった。それを把握するところがスタートラインとなる。

 

家中の通帳やカードを搔き集めて、ひたすら記帳、解読。そもそも全部で口座がいくつあるのかも分からない。残高は合算するといくらあるのか。月の収支はどうなっているのか。
さすがに、母の医療費を全額ポンと払ってあげられるほど、20代の子供たちに余裕はない。
家計の全貌が見えてくると、どうやらお金は全然足りないようである。ウワー!!!

 

人生、本当に貯蓄は大切なのだと思い知りました。


なんて、しみじみしている場合でもなく、現実には医療費の請求が次々にやってくる訳で、窓口で懇願して誓約書の記入とともに延納をさせてもらいました。1ヶ月で病院を数院転々とした月なんかは、請求書がいっぱいで何が何だか。確定申告での医療費控除や、高額医療・高額介護合算療養費の制度を利用することに。もちろん、高額療養費制度にもお世話になったし、限度額認定証も発行した。


なんだか漢字がいっぱいの聞きなれない言葉だなぁ、と感じるひとも多いでしょうが、それこそが我々の混乱でした。申請手続がめちゃくちゃ面倒なものも多く、初めてやるのはなおさらキツいものがある。あの時の尋常ではない疲弊は、本当に忘れられない。

 

他にも、家計の見直しをするなかで、どうしても家賃を下げる必要が出てきて、怒涛の繁忙の渦中に実家の引っ越しも行いました。家財道具の処分から何から何まで、短期間でやるのは本当に大変だった。よくやれたな。
私が新しい賃貸の保証人になったのですが、必要書類の印鑑証明以前に印鑑登録をしていないとか、入居審査に何回も落ちるとか、引っ越し業者を押さえてるのに無事引っ越しできるのか分からんぞ!!!みたいな混沌状態に陥って、死にかけました。(しかもバリバリ仕事の繁忙期に被っていた)

 

 

3.仕事との両立


これがいちばん大変だった。というか、両立できていなかった。


私が勤めていた会社は、福利厚生はしっかりしている方で、有給休暇や介護休暇の取得も出来る環境にあった。非常に恵まれていたと思う。
それでも、やっぱり仕事と介護を両立するのは、正直厳しい。

 

育児をしながら働いている先輩には共感するところが多かったのだけど、やはり急な休暇取得が多すぎると、上司や同僚から嫌味を言われたり、嫌がらせを受けることが非常に増えてくる。(パワハラだよ!と思うけど、相手の気持ちも分かるんだよ…)
責任のある仕事からは外されるし、急に仕事に穴を開けては迷惑を掛け、私生活では介護で疲弊して、次に出社したときには謝ってまわる。私生活も仕事も辛い。精神の八方塞がり。

 

それまで溜め込んでいた有給休暇を存分に放出し、ひどい時は月の半分も出勤出来なかった。他の家族は、仕事を休むと給料が下がってしまう状況なので、病院や役所まわりは基本的に自分が担当することにしたのである。病院とか介護施設って、何をするにも平日の昼間に家族の立ち会い説明の場を求めてくるんだよなぁ。あれは、どうにか改善されてほしい。それこそ、ZOOMで面談とか出来たら、少しでも楽だったのに。

 

こんな風に休暇を取得してばかりの私だったけど、わずか出勤していた間も、毎日病院や介護施設、役所、保険会社、その他多方面からの着信が鳴りやまず、一発で出ずに折り返し連絡にすると取り次ぎがややこしいからと、電話があるたびにスマホを持って倉庫に走っていき、15分は帰らない、みたいなことが多くて、めちゃくちゃ離席時間が長かった。仕事をしていないのである。給料泥棒も良いところであった。


そんな状況が1年以上も続くものだから、途中からは上司に「いつになったらまともに働いてくれるんだ」と詰められることも多くなった。

生活の全てに疲弊していた自分は、いつ介護が終わるかなんて私が知りたい、人様の親に早く死ねと言っているような失礼な発言だな、と思いながら、空気の重たい面談室で黙り込み、上司をジッと睨み返したりしていた。いま思えば上司も気の毒である。
そして、母の葬式後、別の上司に満面の笑みで「や~っと岡本さんもちゃんと給料分の働きをしてくれるのね、良かったわ」と言われたり、他にもたくさん、思い出せば嫌なことばかりである。あれって、ハラスメント、だったよな、多分。

 

 

4.家族のメンタルヘルス、分担と共有


介護を続けていく上で最も大切なのは、家族のメンタルヘルスなのではないかと思う。

 

ちなみに、私は介護を始めて3ヶ月で介護鬱を発症してしまい、心療内科に通い始め、貰った抗うつ薬躁転して、大変な精神状態になっていた。典型的な躁鬱である。
服薬治療は大切なことだけど、結局原因となるストレス環境が改善されていなかったのだから、悪化の一途をたどるばかりだったのは、当たり前のことだった。


それでも最後まで、ちゃんと介護を形に出来たのは、家族間のバランス良い介護分担と信頼関係があったからだと、そう感じている。

 

今まで私が介護について書いてきたのは、「事務手続き」に関することばかりだったのは、もう気付かれているだろうか。


そう、私たちは、家族で相談して、お互いの適性を見極めた上で、徹底的な分担制を敷いて介護をすすめていた。具体的には、家計管理や監督指示を行うマネジメント担当と、母の直接介護をする担当と、事務手続きと外回りの担当(=私)の3つである。
人生でこれほど、親が子供を3人生んでくれたことを感謝したことはなかった。


私たち3人は別々の家に住んでいる訳で、だから、情報共有のために進捗状況を毎日のようにメールで共有する作業は面倒だったけれど、自分の得意な作業を中心にやれば良いのが救いだった。
むしろ、一人で介護をすることは可能なのか?とすら思う。日本の将来が不安です。

 

介護にまつわる仕事や作業は本当に多すぎて、私は躁も相まって、週に20時間も眠れない日々が続いていた。常に混乱していて、常に限界状態だった。毎日毎日、地獄の綱渡りをしている気分。自分の生活なんて、ぐちゃぐちゃで、プライベートもないに等しかった。次第に、無神経に他人が放つ言葉を引き金にして、何日も寝込んで動けなくなる、そんなことが増えていった。躁鬱状態の悪化だった。


駅のホームで何度も、自然にホームに飛び降りて死にそうな感覚を経験した。


家族の苦労を知らずに半狂乱で暴言を吐く母に対して、爆発的な殺意を抱き、本当に殺してしまおうという思考で頭がいっぱいになったことがあった。


自殺も殺人も、遠くの世界の出来事なんかじゃなくて、人間追い詰められれば、簡単に越えてしまう一線なのだと身をもって実感し、危機感を抱いた。


母が亡くなる直前、在宅介護とデイサービス利用を並行するなかで、容体急変、緊急搬送が激増して、家族も限界を迎えていた。母だけでなく、兄まで倒れて緊急搬送されて、同じ病院の別病棟に入院していたときなんか、一周まわって笑いそうだった。(医療費も相まって笑い事ではなかった)

 

母はいよいよ緩和ケア病棟に移動し、深夜に何度も危篤連絡が入った。
看護師さんが「危篤なのでご家族は来てください」と連絡をくれるものの、いよいよ金銭面も限界に近く、誰も自動車を持っていない我が家では各々タクシーでかけつける余裕もなく、「お金がないので行けません」と答え、看護師さんに激怒されたりしていた。

 

母が生きた最期の日は、土曜日だった。昼下がり、家族に囲まれて、静かに、大きく苦しむこともなく、息を引き取った。


正直、あれより母が長生きしていたら、どうなっていたのかなんて想像も出来ない。


波乱ばかりの1年、立派に介護が出来たなんて胸を張れないことも多かったけど、無事に看取り、看取られることが出来たことは、家族にとってせめてもの幸いであった。

 

 

***

この記事を書くにあたって、当時の状況や気持ちを思い出すため、2017~2018年の手帳やメール、ブログなどを全て見返していました。


本当に過酷な状況で、よく今日まで生きてこれたなぁと素直に関心したりもして。
体調なんかは、主に精神疾患の部分で後を引いている部分もあるのですが、現在の自分の人格や人生観は、明らかに介護をした1年間に確立されたものだと感じています。

 

介護には正解なんてない。介護は哲学である。
終わりが見えない持久走で、全力で走り続けたら死んでしまう。


私は、誰かが言っていた、「正解とは、自分が納得できて、他人を説得できる選択だ」という言葉を胸に、後悔のないように、でも頑張りすぎないように、七転八倒の日々を走り続けていた。楽になりたい、と祈ること自体が、人の死を願うみたいに感じて、罪悪感を募らせる毎日だった。

 

親戚をはじめ、何かと心配してくれるひとは多く、その気持ちはとても有り難かったけれど、誰かに矢継ぎ早に状況を聞かれて色々と説明するのはしんどい時もあって、「触れずに見守る」という優しさの尊さを、身をもって知りました。自分の友人は、そういった配慮をしてくれる人達が本当に多く、心の底から感謝しています。

 

毎日が辛くて、病院帰り、会社帰り、空ばかり見ていた日々を、私は一生忘れることはないよ。

 

過去の記憶を書き残すということ、自分にとっては、忘れない意志と、心の引き出しに仕舞いたい気持ち、この二つを共に内包する行為です。


ちゃんと文章を書くの、しんどくって、時間も精神力も必要だけど、こんな形でしか、私は前に進めないのだと思う。

 

自分のために書いたような文章だけど、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

しんどい時はたくさんあるけど、それはきっと、ちゃんと生きたい証拠なんだよ、ね。

2020/8/27-28 尾道-福山

青春18きっぷ、使いきれないからいりませんか」


旅好きの友人から連絡が来た3日後には、尾道へ向かう電車に揺られていた。



元々、旅行は好きな方ではあるものの、金欠だとか計画性のなさだとかを理由にして、泊まりがけの一人旅に出るのはこれが初めてだということに気付いた。びっくりだね。(音楽関係の遠征と法事を除く)



いつもはしっかりものの友人(達)に旅程を任せて、自分はぼんやりしたり、現地で勝手に個人行動をしたりと楽しくやらせてもらっていたけれど、さすがに電車の時間くらいはガッチリ調べていかんと不味いのでは、と思い、前日の夜に蛇腹便箋にひたすら書き付けた。やれば出来る。


どこに行ってどうこう、詳細な解説、なんて記事なら、もっと上手く書いてるひとがたくさんいると思うので、今回は個人的な旅情ばかりを綴ることにします。



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モーニングは加古川のニシカワパンにて。
アーモンドトーストが最高なのよ……



近年の私は、県を跨ぐような移動を出来るだけ避けていた。
これは、感染症対策がどう、とかいう話ではなくて、体調的な問題で公共交通機関に乗ることが厳しくなってしまったのが理由である。


人が多い車両は駄目。乗り換えも駄目。雨の日はもっと駄目。
神経がザワザワとして不快でたまらず、とても乗っていられない。おなかも壊す。ふらふらで途中下車することも多い。



しかし、最近それに転機が訪れた。
8月から心療内科で新たに処方して貰うようになったある薬がよく効いて、普通に快適な感覚で、街を歩いたり電車に乗れるようになってきたのだ。ちなみに眩しく感じることも減った。


これには本当に感動してしまった。
ああー 昔の自分はこんな感じだった、そうだ。
自分に合う薬探しの旅は続く、全然油断は出来ないのだけど、そんなタイミングの後押しもあって、今回の尾道旅行は実現出来たのかなと思う。リハビリだね。



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尾道到着、つたふじにて中華そばを食す。



ひたすら瀬戸内海の海岸沿いを散歩、のち千光寺へ。晴天に恵まれる。海と山、坂道、階段、神社仏閣、その景観に凝縮された歴史を感じる。

そういえば、尾道に興味を持ったきっかけは志賀直哉の『暗夜行路』だったなぁ。

写真は余るほど撮ったので、お気に入りのものだけ少し。実物には到底及びませぬ。



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夜は尾道の少し東、福山に移動してホテル泊。
Go To Travelの恩恵で、いつもより少し良いホテルに泊まった。なかなか楽しい経験である。



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しかし風呂は近場の銭湯に行く。良い。



2日目は、バスで南に出向いて、鞆の浦へ。
景勝が見事で、本当に圧倒されてしまう。



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写真なんかじゃ伝わらないよ~



訪れたのが平日だったこともあり、街並みは少し寂れているようにも思ったけれど、歴史的な建造物の荘厳なこと!江戸時代の湾岸施設が揃って残っているのは大変貴重なことらしい。


なんせ、江戸時代には北前船の寄港地で、朝鮮通信使も立ち寄ったというのだから、納得である。


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この、江戸時代からある常夜灯は、船の出入りのための灯台として、ずっと使われてきたもの。
歴史好き、海辺の暮らし好き人間なので、この上なく、ときめく。



街歩きをしていたら酒屋を見つけ、家族へのお土産に!と思い立ち寄る。素敵な店員さんが試飲をすすめてくれて、アルコールに弱い自分はほろりとなってしまう。
購入したのは保命酒という歴史ある地酒で、かの黒船で有名なペリーも飲んだとか。
(当時の老中の阿部正弘が福山藩主だったからだね)


お酒に酔ったので鞆の浦から退散して福山駅に戻る。



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休憩がてら、茶店へ。純喫茶ルナのプリントップ、美味しすぎる。死ぬまでに絶対もう1度は食べたい。



なんだかすっかり満足し、潔く15時過ぎの電車で帰る。20時台帰宅。良いじゃないか良いじゃないか。



一人旅の良さを満喫しきった2日間。
どこにいても、何をしてても、自分は自分なのだと思い知る。マイペースとは自分と向き合うことではないだろうか。



これから先、行きたいと思っている旅行地は色々あるけれど、一人で行きたい場所と、誰かと行きたい場所は、明確に違うような気がした。

いま一人で行きたい場所は賢島、内子町、指宿、お友達と行ってみたいのは道後温泉とか、かなぁ。
お金はいつも本当に本当にないので、あとは良いご縁を天に祈るのみ。


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帰路、姫路でえきそばを食べる様式美。


そういや、旅の恥はかきすて、なんて言葉があるけれど、自分はそうは思えなくて、旅先の方がシャンとして過ごしている気がする。ホテルのシーツやタオルなんかも意外と整頓して帰るタイプだったり。


どちらかといえば、人生の恥の方が、かきすてなんじゃないかな……みたいなことを思ったり、思わなかったり、しながら、京都へ帰る。

10年前、高砂に住んでいた頃は、連休があるたび京都に遊びに行っていたのに、いつの間にか京都は帰る場所になったんだねぇ。


この電車は、新快速、京都方面米原行きです。
次は、芦屋、芦屋―――

動物と暮らす

二匹のモルモットを飼っている。齢は3歳10か月と、3歳5か月。


大学を卒業して働き始めた1年目の秋と、2年目の初夏にお迎えした。

モルモットは元々群れで過ごす動物だと聞いて、仕事で留守にする時間が長かったこともあり、寂しくないようにと多頭飼いにした。どちらも性別は雄。

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ペットを飼い始めるきっかけって、みんなどんなものだろうか。凄く気になる。色々なひとの話が聞いてみたい。


自分の場合は、仕事に慣れ始めて、地に足がついたはずなのに、あっという間に過ぎゆく毎日の掴みどころのなさが不安で、相棒が欲しかったような感じ。思い返せば浅はかな気がしなくもないが、大体のひとは最初はそんなものじゃないのかなぁ、とも思う。


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モルモットは、ペットの中だと販売価格が安い部類だと思う。実際、自分は二匹とも、ペットショップで3000~5000円ほどで買ったし、ジモティーや保護っ子ちゃんの里親募集だと、お迎えすること自体にはお金がかからないこともあるかもしれない。


それでも、個体の値段の多寡に関わらず、ケージやキャリーを始めとした様々な備品だとか、月々の餌代や病院代、エアコン代、旅行等で連泊不在にするならペットホテル、その他諸々、手間もお金も当たり前にかかるものだ。


世の中には、仕事都合の転居や、アレルギーの発症等で、ペットを途中で手放さざるを得ない人がいたり、多頭飼育崩壊が起きたりしている。当事者を責めようなんて思っている訳じゃないけど、難しい問題で、ずっと考え込んでしまう。多頭飼育崩壊は、本当に…… 調べたら色々出てくるので、興味がある人は、検索してみてほしい。ちょっとしんどいものかもしれないけれど。


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なんだか少し暗い話題になってしまった。


でも私は、動物と暮らすことは、とても良いことだと思っている。


毎日、起きたらすぐに、モルモットたちの元気な姿を確認する。帰宅時も同じ。


気温を調整する。寒すぎず、暑すぎず。ちなみに、我が家では黒い子の方だけ、季節の変わり目に必ず風邪をひく。動物は言葉を喋らないから、様子をよく観察する。体温を手ではかる。
思いやりは態度で示すことが大切。きちんと信頼関係を築いていく。共同生活とは、自分の生活の見直しと紙一重である。


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モルモットの寿命は、諸説あるものの、平均すると5~6年くらいだと聞く。3歳くらいから老い始めて、長い子は10年以上生きるとも言うけれど、普通に考えれば寿命の折り返しは過ぎているだろうか。


毎日、ビタミン豊富な生野菜をあげながら「あと50年くらい生きてもいいんよ~」と話しかけて撫でている。今のところは毛並みもつやつやだし体調も良好だけど、風邪を引いた時期なんかは何週間も寝てばかりいるので、心の底から心配で、気が気ではなかった。最期まで、のんびりしっかりそばにいてあげたいなぁ、と日々思う。


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そういえば、我が家のモルモットの飼い方はやや特殊で、ケージに入れるのではなくて、放し飼いの形式をとっている。写真は日常風景。ちょっと写ってる赤いものは、赤ピーマンの細かいやつ(血じゃないよ!)


モルモットにしては、わりと決まった場所にトイレをしている方だけど、本当に掃除が大変な動物だ。


最初はケージに入れて飼っていたけれど、あっという間に窮屈になってしまって、ケージを買い替えたり、囲いを作ったり試行錯誤するうちに、今のスタイルに落ちついた。


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囲いを作っていた頃。脚力が凄くて、すぐ飛び越えてしまう。


現在の我が家では、配線は全てモルモットの手の届かない場所に。床にものを置かない。人間の生活範囲と上手く棲み分けできている。


しかし、ここまで来るのに本当に時間がかかった。本やCDの歌詞カード、服が囓られた回数は両手に余るほど。モルモットの体重は、今ではお迎えした当時の8倍になり、もはや小さめの子犬くらいの大きさはある。最初に買ったケージの使い物にならなさ!まぁ、今は広々といきいき暮らしているようなので、何よりということで。


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最近は、災害時の対応について、もっと考えておかなくてはならない、と思っている。

ハザードマップを確認したところ、立地としては比較的強い場所に住んでいるようだけど、何があるか分からない。大体の準備は出来ているつもり、しかし、餌をもっと多めに仕入れておくべきだろうか、とか、いやーさすがに全部一気に運ぶのは不可能だよね…とか。現状、考えの詰めが甘いような気がしてならない。今夏の課題。


去る2月、肺炎で高熱を出し、救急車で運ばれ、数日帰れないことがあった。

その時は、家族に鍵を預けて、餌と水の補充をお願いして事なきを得た。やはり単身世帯では家主の健康管理が肝要だ。頑張れ、飼い主。




動物のいる暮らし、ではなく、動物と暮らす。
その方が自分には、なんだかしっくり来る。




踏ん張って生活して来れたのは、君たちのおかげだよ。


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これからもよろしくね

カレーライスと思い出

カレーライスが好きだ。


カレーが好きなひとって、自分の身近には結構多い。スパイスカレーを日常的に作ったり、外食したり。もちろん私もその一人である。スパイスは専門店で安く仕入れる派。自宅にはマスールダル常備。


でも、今日は、市販のカレールーから作る「家庭的なカレーライス」の話がしたい。


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冷凍庫の野菜を一掃したい時に、よく作るカレーライス。
ルーはゴールデンカレーの辛口、具材は適当。今日はシーフード、玉ねぎ、人参、大根、茄子。雑に色々入れるのが美味しい。これが自分流。



カレーライスには思い出がたくさんある。


小学生の頃、金曜日は必ず夕食がカレーで、ドラえもんクレヨンしんちゃんを見ながら食べていたこと。学校の給食とメニューが被るのが嫌だった。
(水・金の給食が“ごはんの日”だったから結構な被り率なのだ……)

友達の実家や下宿で食べさせてもらった、我が家とは味の違うカレーが美味しかったこと。
飯盒炊爨で作ったカレー、高校や大学の食堂で食べるカレー。

思い出せば、他にもまだまだある気がするのだけど、自分にとって最も思い出深いのは、父が作ってくれたカレーライスである。



小学5年生のとき、母が数か月ほど入院していた時期のこと。
仕事が忙しいといって、たまにしか家に帰らなかった父が、よく作ってくれたのがカレーライスだった。


父は全く家事をしない人だったので、料理が出来るということに心底驚いた。
カレー以外にも、だし巻きやサイコロステーキ等の「男の料理」を披露してくれた。全部やたらと美味しかったけど、そう頻繁に食事を作ってくれたわけではない。私はいつもシスコーンという名前の、ケロッグよりは安価なコーンフレークを食べていた。


カレーという食べ物は、作り置きに非常に便利である。
父は、数種類のルー、数種類の高級肉、多量の野菜を入れたカレーを、大きなずん胴鍋に20~30人前ほど作ってくれた。ビールやワイン、隠し味も様々。そして非常に美味。


しかし、子供の地獄はここからである。


「学校行ってる時と、寝てるとき以外、絶対に火を絶やすなよ」


そう言って父は仕事に出掛けた。地獄の始まりである。

カレーが家にある間は、常に弱火でカレーの世話をしていなければならない。腐らせないためにである。姉と兄は中学生で、塾に通ったり、帰りが遅かったりで、小学生の私にその役目が押し付けられてしまったのだ。

父は怖いひとだったので、言いつけを守らなければ怒鳴ったり殴ったりされる。そう怯えながらカレーを見守る日々。底に焦げ付いたりなんかしたら、どんな恐ろしい目に遭うことか。

私はずっと台所にいた。IHの弱火をつけながら、コンロ下の床でうたた寝をしてしまい、飛び起きてはカレーをかき混ぜる。「もうカレーは見たくない……」そう思ったほどである。


1週間くらい、毎日カレーの世話をして、子供3人でカレーを食べ、カレーがなくなったら安心した。責務からの解放だ!

しかし、カレーが残り1/3ぐらいになった時に、ふいに父が帰ってきて、具と水とルーを足して“増産”し始めることもあって、あれは悪夢のようだった。カレー作りは、もはや父の趣味でしかなかった。


…そんな思い出も、過ぎ去ってみれば恋しいものである。
今でも、カレーに火を通すたびに、昔の父の姿を思い出したりするものだ。



余談になるが、我が家のカレーの思い出のうち、父のエピソードは幸福な部類に入る。


母のカレーライスは凄かった。

異常にシャバシャバなのである。もはやカレー水で米をすすいでいるような新感覚。規定量の2倍くらい水を入れたとしか考えられない。
「水をちゃんと計って箱の裏面の通りに作ってよ」と何度進言しても、「ちゃんとやってもこうなる」と返ってくる。精神不安定な時期ほど、カレーのシャバ度は上がるので、それが指標みたいになっていた。


ちなみに母は、カレーライスを食べ始める前に、コメとカレーを完全に混ぜてしまうタイプだった。かつ、ルーが少なめ。

小学校低学年の頃は、その教えを信じて食べていたけれど、出来損ないのカレーピラフのようで本当に不味かった。しかも、「早く食べなさいよー」と言って、先にコメとカレーを混ぜてくるものだから、遅れて食卓に着くと、見るも無残な乾燥冷え冷えライスカレー(?)が待っているのである。ある時、それが食べられたものじゃなかったので「食べたくない」とゴネていたら、怒鳴りながら頭を掴んで口に無理やり入れられ、しばらくトラウマになった。しかし、母が亡き今はそれすらも少し懐かしい。



あまりオチもないけれど、私のカレーの思い出話は、これにて終了。



次は、みんなのカレーライス物語を聞かせておくれよ。