家賃2万の下宿に住んでいた‐2012

11月の寒さは厳しい。

 

毎年「11月ってこんなに寒かったっけ」と思う。人生何年やったって学習しない。

 

今年は母校の大学の学園祭がなくて寂しかった。
グラウンド中央のファイヤーと呼ばれる巨大な焚火を見て、確実に迫り来る冬の足音を、その温度と湿度で感じるのが好きだった。昼間しか行けなかった年もあったから、最後に見たのは何年前だろう。年齢を重ねると記憶が曖昧になる。

 
それでも、冷え込みが厳しくなり始める季節に必ず思い出す記憶がある。
今回のblogは、家賃2万の下宿に住んでいた、2012‐2013年の思い出話を少し。

 

 

 

 

2012年、大学1回生の私は、京都市左京区、北白川方面の浄土寺という場所で一人暮らしを始めた。
木造2階建て、築60年、和式便所。言ってしまえば、ボロアパートである。

 

キッチンは共同。風呂はタイル張りで浴槽はステンレス、大家さんがボイラーで沸かしているからと19~24時までしかお湯が使えない。水道水はうがいをするのも苦痛なレベルで錆の味がする。私は歯磨きのために2Lのミネラルウォーターを買っていた。あとはゴキブリが同時に3匹出現するレベルで衛生環境が劣悪だった。

 

鍵の立て付けが悪くて勝手にドアが開くとか、金縛りに遭うと必ず天井の一角に黒い影が現れるとか、共同のベランダでホームレスのおじさんが寝ていたことがある(私が干していたバスタオルを下に敷いて)とか、数あるエピソードは強いものばかり。

 


そう、何を隠そう、自分は貧乏学生だったのだ。

 

 

私が大学に入学した春、父親が突然くも膜下出血で倒れ、夢のキャンパスライフ!どころではなくなってしまったというのが実際の話で、多額の奨学金を借りながら、ギリギリ大学生活を形にするので精一杯だった。

 


最低限の服と教科書とギター、それだけを持って入居した家賃2万のボロアパート。
洗濯機は共同で使えたので助かったけれど、冷蔵庫もパソコンも布団も、家具や家電なんてひとつも持たなかった。18歳の夏のことだった。

 

 

 

今年、ふとした折に浄土寺に立ち寄る機会があり、このアパートを覗こうという気持ちになって裏道に入ったら、もう潰れてなくなっていた。今になれば、当時の記憶は遠い夢のようなものである。

 

 

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インターネット上に少し情報が残っていた。
この価格帯の物件の中では、かなりマシな部類だと思う。
(他に何件か内見に行ったら本当に人が住めなさそうな家が多数あった…)

 

 

 

冷蔵庫や布団がないと言っても、夏はまだ良かった。

大学生の食生活なんて、学食と牛丼屋とラーメンとマクド、あとは友達に誘われた食事で成り立っているようなもので、そもそも自炊なんて最初からカップラーメンくらいしか想定していなかった。布団が無くて、タオルを床に敷いて寝ていたけれど、身体がバキバキになっても若さがあったので耐えられた。

 


問題は、秋からその先である。

 

9月末には、自分が持っている服で山を作って、その中で眠ったりしていた。

それでも限界で、友達が余っているからとくれた夏用寝袋を使うようになった。
寝袋の寝心地の良さに感動しつつ、11月にはそれでも寒さが厳しくなり、バイト先のピザ屋の先輩に布団をもらった。

 

やっと人間らしい暮らしになってきたと思えたのも束の間、暖房のない部屋で初体験する盆地の冬に耐えられるはずもなく、毎晩、体温を上げるためにコンビニのカップ酒を飲んで布団の中で震えていた。
友達に「ロシア人かよ!」と笑われたり、サバイバルが得意な先輩が家にやってきては布団の下に段ボールを敷いて防寒してくれたり、ビニール紐で服が干せる場所を作ってくれたりしたのも、今くらいの季節だったような気がする。秘密基地作りみたいで楽しかった。一生忘れられない思い出だな。

 

 

寒さが厳しくなって、ピザ屋の安時給では今の生活を維持することしか出来ないことに気付いた私は、時給が高い夜のバイトに出るようになった。

半年先の引っ越しを夢見て、色々と思案しながら必死で働き始めた。稼げる仕事は楽しい。

24時以降に帰宅したら風呂は冷水しか出ないから、やかんで沸かした熱湯に水を混ぜて洗面で髪を洗い、絞った濡れタオルで身体を拭いて、ブルブル震えながら眠って、時には高熱を出したりしながらも、冬を越したのだ。

 

 

 

結局、しっかりと貯金をして家賃4万の綺麗なアパートに引っ越したのは2回生の夏だった。


冷蔵庫や洗濯機、パソコンなどの家電が最低限揃ったのもその頃で、やっと生活のスタートラインに立てたときには単位弱者となり果てて留年の現実味が目前に迫ってきたり、問題は山積みだったけれど、生活が、暮らしがあることが、本当に本当に嬉しかった。

 

 

 

裕福なひとには最初から与えられているもの、それが自分になくったって、手に入れる過程が宝物になることだってある。


家具や家電をくれた友達、先輩、食パンの耳を貰いに通ったパン屋のおばちゃん、限界だったときには友達や先輩の暖かい下宿でベッドを借りて眠り込んだ。起きたら家主が授業に出て不在だったこと、美味しい食事が出てきたこと。白米、味噌汁、カレー、親子丼、期限ギリギリのもやし炒め。

 

バイト帰り明け方北白川の坂、駆け上げる自転車。寒くて眠れなくて歩いた早朝の哲学の道、そこで遭遇した下半身露出狂のおじさん、手が届かなくて切れっぱなしだった風呂と便所の電球、トイレットペーパー買えなくてトイレ借りに行ってたファミマ、閉店間際に食べる福仙楼、全部が忘れたくない10代の記憶。

 

貧乏で苦しんだ人間のエゴかもしれないけど、苦労なんて買われてもしたくないけれど、あれはお金なんかじゃ買えない、本当の青春だったのだと思う。

 

 

 

 

8年も前の貧乏生活を思い出して、あの頃よりはずっと前に進めているよね?と勇気づけられることの多い人生だった。

 


実は今も人生の貧乏生活第2波に襲われていて、ノスタルジーどころではないのだけれど、それでもやっぱり当時よりは格段に良い生活が出来ている。


野菜や魚や米をくれる友達がいて、ごはんが余ったからと食事に招いてくれる友達もいて、心の奥底では何もお返し出来ない申し訳なさと闘いながらも、一人では生きていけないのだなぁと実感する。あの頃も、今もそうだ。

 

 

ちょっとした病気が悪化して、上手く働けなくなって、収入が減って、でも治療方針も目途が立ったから半年もすれば体調も軌道に乗るはず!と祈りながら、日々健康を意識した生活を送っているのが、私の今日この頃です。12月には勤務先を退職して、正式に無職になる。これから暫くが貧乏生活第2波の山場かな、と思う。

 

www.amazon.co.jp

 

お恥ずかしながら、初めてAmazonほしい物リストを作成しました。
春ぐらいに体調を崩したときに、困っていたら食料でも何でも送るから言ってほしい、とメッセージをくれた友人がたくさんいて、その時は全てお断りしたのですが、もうどうにもこうにもならない段階が迫ってきているので、そういった友人達のご厚意に少し甘えてしまおうかなと思いました。

 

今までの自分なら絶対にやらなかったと思うのだけど、手遅れになったらどうしようもないから。

詰む前にひとに甘える、元気になったら恩返しと恩送りをします、必ず。

 

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先週、大学時代の友人と遊んだ際に「ちゃんとリストが作成できてるか見てほしい」とリンクを共有したら、さっそく送られてきたモルモットの餌たち。この3箱で1.5ヶ月分くらいです。本当にありがたくて泣けてしまう。もちろん並行して節約も超頑張ります。

 

今回の貧乏生活第2波のなか、福祉の制度で利用したものも色々あるので、いつか気が向いたら数年後まとめようかな、とも思っている。社会福祉協議会にはとてもお世話になった。

もう駄目だ…となったときの知恵は結構蓄えているので、困っているひとの相談などもお待ちしています(?)

 

 

 

人間、一人では生きていけない。だけど、それでも良いと思えるようになった。

破滅に向かうことだって、一つの選択、でも自分の友達がそれじゃ少し悲しいから。

甘えることは勇気、みっともなくても、捨て身でも、ちゃんと生き延びる選択肢を選べるように頑張りたいよ。そう、私たちは頑張りたいのだ。