カレーライスと思い出

カレーライスが好きだ。


カレーが好きなひとって、自分の身近には結構多い。スパイスカレーを日常的に作ったり、外食したり。もちろん私もその一人である。スパイスは専門店で安く仕入れる派。自宅にはマスールダル常備。


でも、今日は、市販のカレールーから作る「家庭的なカレーライス」の話がしたい。


f:id:owarinn:20200525152432j:plain


冷凍庫の野菜を一掃したい時に、よく作るカレーライス。
ルーはゴールデンカレーの辛口、具材は適当。今日はシーフード、玉ねぎ、人参、大根、茄子。雑に色々入れるのが美味しい。これが自分流。



カレーライスには思い出がたくさんある。


小学生の頃、金曜日は必ず夕食がカレーで、ドラえもんクレヨンしんちゃんを見ながら食べていたこと。学校の給食とメニューが被るのが嫌だった。
(水・金の給食が“ごはんの日”だったから結構な被り率なのだ……)

友達の実家や下宿で食べさせてもらった、我が家とは味の違うカレーが美味しかったこと。
飯盒炊爨で作ったカレー、高校や大学の食堂で食べるカレー。

思い出せば、他にもまだまだある気がするのだけど、自分にとって最も思い出深いのは、父が作ってくれたカレーライスである。



小学5年生のとき、母が数か月ほど入院していた時期のこと。
仕事が忙しいといって、たまにしか家に帰らなかった父が、よく作ってくれたのがカレーライスだった。


父は全く家事をしない人だったので、料理が出来るということに心底驚いた。
カレー以外にも、だし巻きやサイコロステーキ等の「男の料理」を披露してくれた。全部やたらと美味しかったけど、そう頻繁に食事を作ってくれたわけではない。私はいつもシスコーンという名前の、ケロッグよりは安価なコーンフレークを食べていた。


カレーという食べ物は、作り置きに非常に便利である。
父は、数種類のルー、数種類の高級肉、多量の野菜を入れたカレーを、大きなずん胴鍋に20~30人前ほど作ってくれた。ビールやワイン、隠し味も様々。そして非常に美味。


しかし、子供の地獄はここからである。


「学校行ってる時と、寝てるとき以外、絶対に火を絶やすなよ」


そう言って父は仕事に出掛けた。地獄の始まりである。

カレーが家にある間は、常に弱火でカレーの世話をしていなければならない。腐らせないためにである。姉と兄は中学生で、塾に通ったり、帰りが遅かったりで、小学生の私にその役目が押し付けられてしまったのだ。

父は怖いひとだったので、言いつけを守らなければ怒鳴ったり殴ったりされる。そう怯えながらカレーを見守る日々。底に焦げ付いたりなんかしたら、どんな恐ろしい目に遭うことか。

私はずっと台所にいた。IHの弱火をつけながら、コンロ下の床でうたた寝をしてしまい、飛び起きてはカレーをかき混ぜる。「もうカレーは見たくない……」そう思ったほどである。


1週間くらい、毎日カレーの世話をして、子供3人でカレーを食べ、カレーがなくなったら安心した。責務からの解放だ!

しかし、カレーが残り1/3ぐらいになった時に、ふいに父が帰ってきて、具と水とルーを足して“増産”し始めることもあって、あれは悪夢のようだった。カレー作りは、もはや父の趣味でしかなかった。


…そんな思い出も、過ぎ去ってみれば恋しいものである。
今でも、カレーに火を通すたびに、昔の父の姿を思い出したりするものだ。



余談になるが、我が家のカレーの思い出のうち、父のエピソードは幸福な部類に入る。


母のカレーライスは凄かった。

異常にシャバシャバなのである。もはやカレー水で米をすすいでいるような新感覚。規定量の2倍くらい水を入れたとしか考えられない。
「水をちゃんと計って箱の裏面の通りに作ってよ」と何度進言しても、「ちゃんとやってもこうなる」と返ってくる。精神不安定な時期ほど、カレーのシャバ度は上がるので、それが指標みたいになっていた。


ちなみに母は、カレーライスを食べ始める前に、コメとカレーを完全に混ぜてしまうタイプだった。かつ、ルーが少なめ。

小学校低学年の頃は、その教えを信じて食べていたけれど、出来損ないのカレーピラフのようで本当に不味かった。しかも、「早く食べなさいよー」と言って、先にコメとカレーを混ぜてくるものだから、遅れて食卓に着くと、見るも無残な乾燥冷え冷えライスカレー(?)が待っているのである。ある時、それが食べられたものじゃなかったので「食べたくない」とゴネていたら、怒鳴りながら頭を掴んで口に無理やり入れられ、しばらくトラウマになった。しかし、母が亡き今はそれすらも少し懐かしい。



あまりオチもないけれど、私のカレーの思い出話は、これにて終了。



次は、みんなのカレーライス物語を聞かせておくれよ。