母1回忌によせて―精神疾患と闘う<前編>

9月8日は母の命日だった。



1回忌は家族で集まって、お参りをして美味しい料亭で会食をした。
私たちは形式にこだわらず、特別信心のあるタイプでものないので、お坊さんも呼ばずに簡単に済ませる。こういうのは気持ちの問題なのだよな、と思う。
法事にお金をかけて、堅苦しく喪服を着て集まるより、少しでも楽しく故人を偲ぶ機会になれば良いという発想。みんな身体が弱いから無理が出来ないので、半日もすれば解散した。もう9月だというのに、暑い暑い昼下がりだった。



母が亡くなってからの1年間の時間の流れは軽やかで、穏やかに過ぎていった。
少し落ち着いてみて、これまでの人生や、これからの人生について考える時間が出来た。
今回のblogはその備忘録のようなものである。
※記事が長くなったので前編と後編に分けることにしました。




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享年57歳。56歳の夏に子宮頸癌が発覚した母は、様々な合併症を引き起こしながら、約1年間の闘病生活を経て、最期は穏やかに永眠した。


診断が下された時、癌はすでにステージⅣBまで進行していた。いわゆる末期癌というもので、他の部位への転移あり、手術は不可、抗がん剤放射線治療で少しでも癌を小さくしましょうね、という治療方針になる。


「もっと早く発見できていれば良かったのにね」という言葉を、医師やソーシャルワーカー、親戚など、多くのひとから家族がかけられてきた。
当人たちはお悔やみの気持ちを込めて言ってくれているのだと、重々分かっていたのだけど、自分からすれば「なぜもっと早く発見できなかったのか」と責められているような気持ちによくなったのも事実である。


そんなことは家族がいちばんよく考えている。ずっと前から母の体調は悪く、いよいよ病院に連れていくという段では衰弱しきっていて、「きっと命に関わる大病に冒されているはず、おそらく癌か何かだろう」と思っていた。
そんな状態になるまで、病院に連れていくことが出来なかったことには、どうしようもない複雑な理由があって、その大きな要因は母が長年患っていた精神疾患であった。




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2017年春、家族から「母の様子があまりにもおかしいので助けてくれないか」と、連絡が入った。どうも体調に異変があるのに、頑なに病院に行かないようである。



病院嫌いの人間というものは世にたくさんいると思うが、母の病院嫌いは非常に根が深い問題であった。


詳しくは後編で述べるが、母は第1子を出産した頃に精神疾患を発症し、以降 常に自身の精神に人生を狂わされ続けてきた、と言っても過言ではない生活を送ってきた。
母の病気は、ざっくりまとめると双極性障害統合失調症を混ぜたようなもので(病院により診断名が異なるので断定できない)、躁が酷いときは目も当てられないような異常行動を繰り返し、そのせいで、何度も総合病院の精神科に措置入院医療保護入院をさせられてきたのである。



措置入院医療保護入院とは、精神疾患の患者において、自他への危険が明白な場合において行われる、いわゆる「強制入院」というものである。
自分自身、何度もこの入院に立ち会ってきたけれど、はっきり言って本人にも周りの人間にとっても、精神的にかなりしんどい入院です。
所定の手続きを経た上で、身体の自由を奪う、人権侵害グレーゾーンとすら思えるような鬼の所業。本人のためなので仕方ないとはいえ、騙し討ちのように嘘をついて病院に連行する、それに対する罪悪感は常にあった。



母は毎度頑なに入院を拒否していたので、強制的に入院させざるを得ず、大勢の看護師に無理やり拘束され、投薬をされ、無理やり自由を奪われての入院となる。
意識が戻った時には独房で拘束されている、医師が許可を出さなければ集団部屋に戻ることも出来ないのだ、と母は何度も泣いて家族を謗った。
心から気の毒だとは思ったけれど、自発的に入院させることは不可能であり、自傷他害、最悪の場合は自殺もしかねないような状況なので、家族は割りきっていた。精神病の母と長年付き合ってきた私たちは、良くも悪くも非常にドライに対応していたと思う。



こうした経緯から、母は「病院」と聞くだけで最悪の記憶をフラッシュバックし、「また私をあんな地獄に放り込む気か」「政府に人体実験されている」などと興奮して暴れ、手をつけることが出来ない状態になった。これが、癌の発見が遅れた最大の原因だったと思う。母の不運を思うと、流石に胸が痛くなるものがある。




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家族からの要請を受けて、わたしは1年半振りに実家に足を運ぶことになった。
というのも、自身の大学卒業と同時に、身の危険を感じて実家とは完全に縁を切っていて、親には一生会う気もなかったのである。



就職先も決まり卒業の目途もついた大学4回生の冬、母の精神状態は非常に悪かった。
毎日電話してきては泣き、バイトの時間だから切るねと言うと「そんなバイト辞めろ!」と激昂し、愛想を尽かして少し連絡を無視すれば下宿に押しかけ、警察に勝手に捜索願を出したり、「働いたら親に毎月金を寄こすのが当然だ」と責め寄ってきたり、勝手に私を保証人に立てて契約書を捏造したり、それはもう、家族のなかでも比較的温和で我慢強い精神の持ち主であると自負している私から見ても、目に余る程であった。



3月末、ついに私の堪忍袋の緒が切れるときが来たのだ。

母は卒業式に包丁を持って訪れた。
また、就職先に電話をかけて妄想を延々喚き散らした。その話は人事部長まで届き、大変厄介ごとになったりもした。
今までは「病気だから仕方ないかな~」とギリギリ許容してきた母のことを「自分の人生が取り返しのつかないことになっては困る」と完全に切り捨てる決心が固まってしまったのである。
以降一切連絡を無視、実家とは完全に縁を切っていた。下宿も引っ越して、新居の住所は教えなかった。




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正直、親のことは「自分の人生は自分の責任で生きてください」と突き放していたし、病気だろうが何だろうが知りません、くらいに思っていたくらいだった。

しかし、心配なのは残りの家族のことである。特に姉兄に関しては、自分と同じ境遇として気の毒に思う部分が多々あったし、歪みのある家庭環境ゆえ、助け合ってきた分だけ何かと恩義を感じていることは多かった。
彼らに負担を丸投げにする訳にはいかないので、重い腰をあげて実家の扉を叩いたのだった。





久し振りに訪れた実家は、まずマンションの廊下の前に腐臭が蔓延し「これマジで人間死んでない?」という不安が頭をかすめる。
自宅の扉を開けた、その先は地獄だった。
人間が耐えられるレベルを超える腐臭が私たちを待ち受けていた。家の至るところが糞尿血塗れなのである。生き地獄とはこのことか。
ちなみに、父はこの部屋のなかで「鼻詰まってるから分からんわ~」と言いながら平然と焼き鳥を食べていた。怖すぎる。
※ちなみに後日これを大掃除したときが人生で一二を争うほど辛かった。



母は衰弱した状態で風呂の湯舟で歌をうたっている。暑いから、といって水風呂に半日くらい入っているらしい。「アイスが食べたい」と言ってきかないので、仕方なくアイスを食べさせながら病院に行こうと説得した。

その後、救急車を呼んで搬送してみたものの、病院についてみるとまた激昂、数時間に渡る説得のかいもなく暴れ倒し、「患者の同意がないと検査は出来ないし、精神科は救急では見れないんです」と困り顔の医者に追い返されて途方に暮れた。CTやMRIすら取れず、せいぜい点滴が出来たくらいだったような気がする。



こうなれば、また精神科入院しかない。
何度も精神科に入院させたことがあるといっても、これは毎度のことながら本当に大変な作業だった。
経緯は煩雑すぎるので省略、今回は役所や警察、かかりつけの精神科の先生に協力していただいて、荒業で精神科に入院させることに成功した。その過程が非人道的なものであったとしても、それ以外に妥当解はなかったように思う。(詳説すると気分を害するひとが絶対に出てくると思うので、書かないことにします)



一度入院させてしまえば、やるべき手続きや面談などは莫大ではあるものの、ある程度流れに沿ってすすめていけば自ずと道は見えてくる。
幾度かの転院を経て、ようやく正式に癌の診断が下された時には11月、季節はすっかり秋になっていた。



※後編に続きます