母3回忌によせて―介護は哲学

2020年9月8日、母の三回忌を迎えた。
一周忌の翌年が三回忌、法事を何回やっても忘れてしまう。時が経つのは本当に早いねぇ。

 

昨年も同じくらいの時期に1回忌によせて、blogを書いた。

 

owarin.hatenablog.com


多くの人に読んでいただけたようで、共感や、似た悩みを抱いている人達からメッセージをたくさん貰ったりしたのも良い思い出です。皆様、お元気ですか。

 

その時の記事は、母の精神疾患をテーマにしたものだったけど、介護自体についても書き残しておきたいな、と思い、今回また記事を書き残すことにしました。
(1回忌によせて、の記事を踏まえた内容になるので、未読の方は良ければそちらも是非)


私が介護をしたのは23~24歳のとき。
自分の周りで介護で苦労をしている人は、ほとんど50代以上のひとばかりだけど、これからの時代、多くのひとが経験することになるのかなと思います。

そんなとき、もしくは、身近なひとが介護で苦しんでいるとき、この記事が少しでも参考になれば、と思っています。あくまでも、個人的な体験の備忘録ではありますが。

 

 

介護、という言葉に、多くのひとはどんなイメージを持っているのだろうか。

 

介護に関係する仕事に就いているひと、自分や家族、友達が実際に介護を経験しているひとには、そのひとなりの具体的なイメージがきっとあるはずです。

 

私は、自分が実際に当事者になるまで、なんだか自分には関係ないこと、漠然と大変そうなこと、歳を取ってから寝たきりになること、ぐらいのイメージしかなく、そもそも介護について何か考えを抱いたことなんてなかったような気がします。


それが、まさに青天の霹靂、自分の身に突然降りかかってくるなんて。


知識ゼロ、周りにアドバイスをくれる経験者もゼロ。暗中模索しながら始めた介護。
いま思い返しても特に大変だったのは以下の4つでした。

 

1. 事務手続きの多さ、福祉制度への知識不足
2. 圧倒的金銭の不足
3.仕事との両立
4.家族のメンタルヘルス、分担と共有


あんまり長すぎる記事にならないように努力するので、最後まで読んでもらえると嬉しいな。

 

 

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1.事務手続きの多さ、福祉制度への知識不足


母が入院して検査が進み、ステージⅣの癌であることが判明してからは、ひたすら見慣れぬ手続きに追われる日々となった。


入院の同意書、保証人の記入捺印、検査がある度に呼び出されて説明を聞き同意書記入。
聞きなれない医療用語を必死でメモして、ググって、なんとか理解する日々を過ごす。


病院に行くたびに、医師、看護師、ソーシャルワーカー、様々なひとたちが矢継ぎ早にやってきては色々な説明をされて、要介護認定の申請だとか、高額療養費制度の利用だとか、限度額認定証の発行だとか、自立支援医療障害者手帳障害年金の申請をしたらどうかとか、山積みの事務手続きが発生した。

 

なんやねんそれは!!!!と思う制度ばかりで、説明も分かりづらく、
今は全部、どういう制度か分かっているけれど、当時は何が何だか分からず、しかもそれぞれ、問い合わせ先や申請先が違ったりして、脳のキャパシティが完全にオーバーしていた。


毎回、病院帰りは姉と喫茶店に寄り、貰った資料を掻き分けながら、「これは私が調べるから、これはそっちで調べてもらって…」と分担をして、帰宅後に厚生労働省全国健康保険協会自治体の公式HPを見て調べ、理解して、共有した。

 

私の家庭では、父が高次脳機能障害で、そういった事務作業は20代の子供たちで全て片付けなければならなかった。もっと大人だったら、上手くできたのかなぁ。
家族代表として手続きにいくなかで、若いせいでナメられているのかな、と思う場面が多々あったりして、とても苦々しい気持ちになった。思い出すと、いまでも苦しくなる。

 

 

2.圧倒的金銭の不足


病気になって入院すると、とてもお金がかかる。


それはあまりにも当然のことだけど、私たちは実家の家計状況を全く把握していなかった。それを把握するところがスタートラインとなる。

 

家中の通帳やカードを搔き集めて、ひたすら記帳、解読。そもそも全部で口座がいくつあるのかも分からない。残高は合算するといくらあるのか。月の収支はどうなっているのか。
さすがに、母の医療費を全額ポンと払ってあげられるほど、20代の子供たちに余裕はない。
家計の全貌が見えてくると、どうやらお金は全然足りないようである。ウワー!!!

 

人生、本当に貯蓄は大切なのだと思い知りました。


なんて、しみじみしている場合でもなく、現実には医療費の請求が次々にやってくる訳で、窓口で懇願して誓約書の記入とともに延納をさせてもらいました。1ヶ月で病院を数院転々とした月なんかは、請求書がいっぱいで何が何だか。確定申告での医療費控除や、高額医療・高額介護合算療養費の制度を利用することに。もちろん、高額療養費制度にもお世話になったし、限度額認定証も発行した。


なんだか漢字がいっぱいの聞きなれない言葉だなぁ、と感じるひとも多いでしょうが、それこそが我々の混乱でした。申請手続がめちゃくちゃ面倒なものも多く、初めてやるのはなおさらキツいものがある。あの時の尋常ではない疲弊は、本当に忘れられない。

 

他にも、家計の見直しをするなかで、どうしても家賃を下げる必要が出てきて、怒涛の繁忙の渦中に実家の引っ越しも行いました。家財道具の処分から何から何まで、短期間でやるのは本当に大変だった。よくやれたな。
私が新しい賃貸の保証人になったのですが、必要書類の印鑑証明以前に印鑑登録をしていないとか、入居審査に何回も落ちるとか、引っ越し業者を押さえてるのに無事引っ越しできるのか分からんぞ!!!みたいな混沌状態に陥って、死にかけました。(しかもバリバリ仕事の繁忙期に被っていた)

 

 

3.仕事との両立


これがいちばん大変だった。というか、両立できていなかった。


私が勤めていた会社は、福利厚生はしっかりしている方で、有給休暇や介護休暇の取得も出来る環境にあった。非常に恵まれていたと思う。
それでも、やっぱり仕事と介護を両立するのは、正直厳しい。

 

育児をしながら働いている先輩には共感するところが多かったのだけど、やはり急な休暇取得が多すぎると、上司や同僚から嫌味を言われたり、嫌がらせを受けることが非常に増えてくる。(パワハラだよ!と思うけど、相手の気持ちも分かるんだよ…)
責任のある仕事からは外されるし、急に仕事に穴を開けては迷惑を掛け、私生活では介護で疲弊して、次に出社したときには謝ってまわる。私生活も仕事も辛い。精神の八方塞がり。

 

それまで溜め込んでいた有給休暇を存分に放出し、ひどい時は月の半分も出勤出来なかった。他の家族は、仕事を休むと給料が下がってしまう状況なので、病院や役所まわりは基本的に自分が担当することにしたのである。病院とか介護施設って、何をするにも平日の昼間に家族の立ち会い説明の場を求めてくるんだよなぁ。あれは、どうにか改善されてほしい。それこそ、ZOOMで面談とか出来たら、少しでも楽だったのに。

 

こんな風に休暇を取得してばかりの私だったけど、わずか出勤していた間も、毎日病院や介護施設、役所、保険会社、その他多方面からの着信が鳴りやまず、一発で出ずに折り返し連絡にすると取り次ぎがややこしいからと、電話があるたびにスマホを持って倉庫に走っていき、15分は帰らない、みたいなことが多くて、めちゃくちゃ離席時間が長かった。仕事をしていないのである。給料泥棒も良いところであった。


そんな状況が1年以上も続くものだから、途中からは上司に「いつになったらまともに働いてくれるんだ」と詰められることも多くなった。

生活の全てに疲弊していた自分は、いつ介護が終わるかなんて私が知りたい、人様の親に早く死ねと言っているような失礼な発言だな、と思いながら、空気の重たい面談室で黙り込み、上司をジッと睨み返したりしていた。いま思えば上司も気の毒である。
そして、母の葬式後、別の上司に満面の笑みで「や~っと岡本さんもちゃんと給料分の働きをしてくれるのね、良かったわ」と言われたり、他にもたくさん、思い出せば嫌なことばかりである。あれって、ハラスメント、だったよな、多分。

 

 

4.家族のメンタルヘルス、分担と共有


介護を続けていく上で最も大切なのは、家族のメンタルヘルスなのではないかと思う。

 

ちなみに、私は介護を始めて3ヶ月で介護鬱を発症してしまい、心療内科に通い始め、貰った抗うつ薬躁転して、大変な精神状態になっていた。典型的な躁鬱である。
服薬治療は大切なことだけど、結局原因となるストレス環境が改善されていなかったのだから、悪化の一途をたどるばかりだったのは、当たり前のことだった。


それでも最後まで、ちゃんと介護を形に出来たのは、家族間のバランス良い介護分担と信頼関係があったからだと、そう感じている。

 

今まで私が介護について書いてきたのは、「事務手続き」に関することばかりだったのは、もう気付かれているだろうか。


そう、私たちは、家族で相談して、お互いの適性を見極めた上で、徹底的な分担制を敷いて介護をすすめていた。具体的には、家計管理や監督指示を行うマネジメント担当と、母の直接介護をする担当と、事務手続きと外回りの担当(=私)の3つである。
人生でこれほど、親が子供を3人生んでくれたことを感謝したことはなかった。


私たち3人は別々の家に住んでいる訳で、だから、情報共有のために進捗状況を毎日のようにメールで共有する作業は面倒だったけれど、自分の得意な作業を中心にやれば良いのが救いだった。
むしろ、一人で介護をすることは可能なのか?とすら思う。日本の将来が不安です。

 

介護にまつわる仕事や作業は本当に多すぎて、私は躁も相まって、週に20時間も眠れない日々が続いていた。常に混乱していて、常に限界状態だった。毎日毎日、地獄の綱渡りをしている気分。自分の生活なんて、ぐちゃぐちゃで、プライベートもないに等しかった。次第に、無神経に他人が放つ言葉を引き金にして、何日も寝込んで動けなくなる、そんなことが増えていった。躁鬱状態の悪化だった。


駅のホームで何度も、自然にホームに飛び降りて死にそうな感覚を経験した。


家族の苦労を知らずに半狂乱で暴言を吐く母に対して、爆発的な殺意を抱き、本当に殺してしまおうという思考で頭がいっぱいになったことがあった。


自殺も殺人も、遠くの世界の出来事なんかじゃなくて、人間追い詰められれば、簡単に越えてしまう一線なのだと身をもって実感し、危機感を抱いた。


母が亡くなる直前、在宅介護とデイサービス利用を並行するなかで、容体急変、緊急搬送が激増して、家族も限界を迎えていた。母だけでなく、兄まで倒れて緊急搬送されて、同じ病院の別病棟に入院していたときなんか、一周まわって笑いそうだった。(医療費も相まって笑い事ではなかった)

 

母はいよいよ緩和ケア病棟に移動し、深夜に何度も危篤連絡が入った。
看護師さんが「危篤なのでご家族は来てください」と連絡をくれるものの、いよいよ金銭面も限界に近く、誰も自動車を持っていない我が家では各々タクシーでかけつける余裕もなく、「お金がないので行けません」と答え、看護師さんに激怒されたりしていた。

 

母が生きた最期の日は、土曜日だった。昼下がり、家族に囲まれて、静かに、大きく苦しむこともなく、息を引き取った。


正直、あれより母が長生きしていたら、どうなっていたのかなんて想像も出来ない。


波乱ばかりの1年、立派に介護が出来たなんて胸を張れないことも多かったけど、無事に看取り、看取られることが出来たことは、家族にとってせめてもの幸いであった。

 

 

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この記事を書くにあたって、当時の状況や気持ちを思い出すため、2017~2018年の手帳やメール、ブログなどを全て見返していました。


本当に過酷な状況で、よく今日まで生きてこれたなぁと素直に関心したりもして。
体調なんかは、主に精神疾患の部分で後を引いている部分もあるのですが、現在の自分の人格や人生観は、明らかに介護をした1年間に確立されたものだと感じています。

 

介護には正解なんてない。介護は哲学である。
終わりが見えない持久走で、全力で走り続けたら死んでしまう。


私は、誰かが言っていた、「正解とは、自分が納得できて、他人を説得できる選択だ」という言葉を胸に、後悔のないように、でも頑張りすぎないように、七転八倒の日々を走り続けていた。楽になりたい、と祈ること自体が、人の死を願うみたいに感じて、罪悪感を募らせる毎日だった。

 

親戚をはじめ、何かと心配してくれるひとは多く、その気持ちはとても有り難かったけれど、誰かに矢継ぎ早に状況を聞かれて色々と説明するのはしんどい時もあって、「触れずに見守る」という優しさの尊さを、身をもって知りました。自分の友人は、そういった配慮をしてくれる人達が本当に多く、心の底から感謝しています。

 

毎日が辛くて、病院帰り、会社帰り、空ばかり見ていた日々を、私は一生忘れることはないよ。

 

過去の記憶を書き残すということ、自分にとっては、忘れない意志と、心の引き出しに仕舞いたい気持ち、この二つを共に内包する行為です。


ちゃんと文章を書くの、しんどくって、時間も精神力も必要だけど、こんな形でしか、私は前に進めないのだと思う。

 

自分のために書いたような文章だけど、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

しんどい時はたくさんあるけど、それはきっと、ちゃんと生きたい証拠なんだよ、ね。