母1回忌によせて―精神疾患と闘う<後編>

前編はこちら

owarin.hatenablog.com

*

 

自分が物心をついたとき、すでに母の様子はおかしかったように思う。


人生の記憶の始まりは、3歳、母方の祖父母の家で暮らしていた頃に遡る。その家で私は母と一緒に住んでいたけれど、印象がとても薄い。あとから聞いた話では、自分は祖父母のことを親、母のことをお手伝いさんみたいなものだと思っていたそうだ。
母はいつも縁側で音楽を爆音でかけて、祖母に近所迷惑だと怒られていた。大音量で聴く浜田省吾のJ.BOYが好きだった。

 

―― J BOY  打ち砕け、日常ってやつを。乗り越えろ、もう悲しみってやつを ――

 

今でもこの曲を聴くと、私は故郷を想い出す。

 

 

和歌山県の太平洋沿岸、人口が1万人にも満たない町。自然以外の娯楽など、ほとんど無いに等しい。年の近い子供がいた記憶もない。
そんな小さな町だったけれど、ご近所のおばちゃん達はよく可愛がってくれたし、祖父母のことが大好きだったので、幸せな幼少期だったと振り返る。母はよく海へ散歩に連れていってくれた。少し遠いけどジャスコにも。ゲーセンでメダルゲームに熱中するあまり、母は私を連れ帰るのを忘れたこともあって、川沿いをひとりで歩く私がご近所さんに保護されたときは、こっぴどく祖父に叱られていた。

 

断片的な記憶のなかでも、おぼつかない振る舞いが印象的な母。彼女は療養のために実家に帰ってきていて、事情があり、残りの家族とは別に暮らしていた。
「ゆりちゃんには離乳食をあげた記憶がない」「保育園に通わせるのを忘れていた」と後に語るを察するに、とても子育てが出来る状態ではなかったのではないか。

思えば、私が0歳のとき、引っ越してきたばかりの神戸市で阪神淡路大震災に被災するなど、本当に母の人生は苦労が絶えなかった。悪い意味で引きが強く、大事な決断が苦手。本当は優しいひとなのに心が弱く、すぐ自己犠牲に走ったり、破滅への道を疾走したりする、それが母というひとだった。

 

 

**


やがて、私たちは祖父母の家を去り、家族全員で暮らし始める日が来る。車で1時間ほど離れた市街地へ引っ越したのは、私が5歳になる頃だ。

 

実家を出た母は、最初の数年、不器用ながら家事や育児に一生懸命だった。この頃の暮らしは明るい思い出が多く、住んでいた地域自体が家族全員にとても合っていた気がする。ご近所に仲の良いママ友が何人かいて楽しそうだった。家族ぐるみの友達もできて、その家族と私は今でも親交が続いている。

 

 

そんな平和な暮らしが続いたのも4年くらいだっただろうか。
小学4年になる春、父の転勤が決まり、家族は再び神戸に転居をすることになった。
その後、母は本格的に精神状態を悪化させていくことになる。

 


***

 

当時10歳だった自分は、母の奇行にショックを受けていた。


夜な夜な叫ぶように窓の外に向かって怒鳴り続けたり、はたまた通学路で服を脱いで寝ていたり、外で知らないひとに現金を配ったり、塾に急に怒鳴り込んで来たり、学校から帰ったら見知らぬ暴走族の男性を家に連れ込んでいたり、子供を連れて深夜コンビニに出掛けタムロして朝まで帰らなったり、なんだかめちゃくちゃだったように思う。心配した同じマンションのおばちゃんや大家さんの家に泊まらせてもらったこともあるぐらい。


そうこうしている間に、母は初めて精神科に入院することになる。誰の目で見ても、明らかに精神疾患だった。
入院している間は家に少しばかりの平穏が訪れたものの、洗濯や飯の準備を覚えなければいけなかったし、病院の公衆電話から毎日精神不安定な電話をかけてくるのが嫌で、電話線を抜いていたら父や親戚に怒られたりもした。この頃の記憶に関しては、光景としては覚えているけれど、そのとき自分がどういう感情を抱いていたのかはあまり思い出せない。

 

この頃から、自分は母に対して「親」という感覚で接することが出来なくなっていく。「ママ」「お母さん」とも呼ばなくなっていった。その態度がまた母を傷つけていたのではないかと思う。

 

親元から遠く、友達もいない土地。専業主婦として子供3人の面倒を見るのは、かなり精神的に負担だったはずだ。父は仕事が忙しいといって帰って来なかったし、頼れるひとは誰もいなかった。その後も、また父の転勤に伴って引っ越ししたりしたものの、やはり母は病状は悪化するばかりで、またしても精神科への入退院を繰り返していた。

 


****

 

母が入院を繰り返すなか、わたしは姉兄と3人、子供だけで暮らした。金銭管理や炊事洗濯は難なくこなせるようになっていた、14歳の頃である。

このとき、父は滋賀に単身赴任していて、わたしたちは兵庫県の南西部にある高砂市に住んでいた。父にはあまり会わなかった。

衣服の替えやお小遣いを持って病院を訪ね、面談でうかがった母の病状を父に報告したり、中学生にしてはしっかりしていた気がする。学校はやる気がなくて、ろくに行かなかった。こんなに苦労して頑張って生活をしているのに、何も事情を知らない教師たちに不良や問題児扱いされるのが不服だった。友達も少なかった。

 

 

調子が悪い時の母は、夜中に暴れて「死にます!!!!」といってベランダから飛び降りようとしたり、「金をよこせ」といって血走った眼で包丁を投げてつけて来たり、妄想に取り憑かれて毎日方々電話しては激昂したり、1日3箱くらい煙草を吸っては灰皿を使わずに布団を焼いていたり、言い出せばエピソードは枚挙に暇がない。

完治するまでしっかり入院治療しておけばよかったのに、医療費が高すぎるからと、多少症状が落ち着いたら無理やり退院させていた。あれは良くなかった…と思うものの、個室の入院費用が膨大だったので、仕方なかったという父の気持ちもわかる。


この頃には、もはや母は一切の家事をしなくなっていて、自宅で廃人のようになっていることが多かった。

 


…こんな風に書き連ねると、親として最悪だ、と感じられるかもしれない。10代の頃は自分もそう思っていた。けれど、結局 母に根本的な問題や責任があった訳ではなくて、本当に運や境遇や環境が悪かっただけで、ボタンの掛け違いで誰にでも起こりうることなのだと思う。


家族のプライバシーに配慮して大幅に省略しているけれど、「正気ではいられない」と思うような事件は非常に非常に多かった。
崩壊している家庭にありがちな、暴力、金銭、夫婦関係、異性問題、親戚関係、子供の問題、などである。さすがに、公共の場では一生口に出来ないなと思うようなことも、本当にたくさんある。封印するあまり忘れたことも多分ある。墓まで持っていくタイプのやつである。色々な出来事が引き金になって、精神を混沌と狂わせていく。

 

 

もっと精神疾患に理解のある家族や友人に恵まれれば、これほど病状が悪化することもなかったのに。そんな風に思えてならない。父も祖父母も子供も、対処ばかりは身についたけど、病気を理解するにはかなり時間がかかった。その点においては、少し悔いが残るところがある。その時々で最善策を選び続けてきたつもりだった。


病気は初めのうちに適切な対応を素早くすること、理解者を持ち、毒になるひとは早めに遠ざけておくことが本当に大切。早く早く上手に逃げることが何よりも肝要だった、と痛感する。精神疾患が限りなく悪化していた母は、その後もずっと寛解することはなかった。

 

人生の幕を閉じるまで、母は精神疾患と闘い続けた。家族もだ。

家族全員に囲まれて、穏やかに看取ることが出来たことだけが、私たちにとっても、彼女にとっても、せめてもの救いだった。

 

あれから1年。

残された家族は、それぞれ波はありながらも、穏やかに自分の暮らしを生きている。

 

 

****


今回、前編と後編に分けて、個人的な記憶や心情をblogに綴ってきた。


本当に、書くべきかどうか随分悩んだのです。精神疾患、家庭の問題など、非常にデリケートな問題に公的な場所で触れるということについて。考えてみれば、書かない選択の方がずっと簡単で、間違いないもの。
母が亡くなって1年経って感じたのは、人間の記憶は想像以上に風化するということでした。思い出すきっかけがないまま、砂に埋もれてぼやけていくような感覚。それは救いでもあるのだけど。残された家族たちも、かたちを変えて続いていく。自分が死んだあとも、世界はこんな感じだと良いな、と思う。

 

 

普通の親ではなかった。でも普通って何なのか。

マジョリティ側に立つ人間は、無意識にマイノリティを排除する。そのことばかりが、ずっと心に引っ掛かっていた。


同じ境遇のひとが見つけにくく、共感されることが少なく、歳を増すごとに口にすることも憚られる。それが何よりも辛い。正攻法も正解もない問題をひとりで抱え込むのは最悪で、自分の周りのひとにはそんな風になってほしくない。


穏やかな家庭に生まれて、今まで精神が切り裂かれる程の苦しみは経験したことがない、というひとも、人生のどこかで道がそれて、泥沼のような苦しみに踠く時期が来るかもしれない。自分の母が、そうだったように。

 

 

 

自分が親から学んだことのうち、いちばん大切にしていることは、他人に何かの役割を強要しないこと、です。親なのに、親子なんだから、とか、大人なのに、子供だから、男は、女は、とか。全然一般化できるようなことじゃないと思う。人間も状況も、ひとつひとつ全部違う。押し付けることなんて出来ないはず。

 


家族にも、友達にも、恋人にも、誰にだって、「こうあるべき」なんて一つも思わずに、自分を生きていられること。それを自分の一生をかけて、財産に出来たら良いな。

大切なひとを追い詰めないこと、出来るだけ誰かの逃げ場になれる人間でいたい。

簡単なことじゃないから、何度も後悔を重ねながら、ずっと心の中に置いておく。

 


大切なことをたくさん知ったから、私は自分の親や育ちを恥じたりなんて、もうしなくていい。2019年、生まれて初めてそんな風に思えるようになった。

 


25歳の自分の備忘録と、誰かの救いになることを願って。

 

 

 


R.I.P.

母1回忌によせて―精神疾患と闘う<前編>

9月8日は母の命日だった。



1回忌は家族で集まって、お参りをして美味しい料亭で会食をした。
私たちは形式にこだわらず、特別信心のあるタイプでものないので、お坊さんも呼ばずに簡単に済ませる。こういうのは気持ちの問題なのだよな、と思う。
法事にお金をかけて、堅苦しく喪服を着て集まるより、少しでも楽しく故人を偲ぶ機会になれば良いという発想。みんな身体が弱いから無理が出来ないので、半日もすれば解散した。もう9月だというのに、暑い暑い昼下がりだった。



母が亡くなってからの1年間の時間の流れは軽やかで、穏やかに過ぎていった。
少し落ち着いてみて、これまでの人生や、これからの人生について考える時間が出来た。
今回のblogはその備忘録のようなものである。
※記事が長くなったので前編と後編に分けることにしました。




*

享年57歳。56歳の夏に子宮頸癌が発覚した母は、様々な合併症を引き起こしながら、約1年間の闘病生活を経て、最期は穏やかに永眠した。


診断が下された時、癌はすでにステージⅣBまで進行していた。いわゆる末期癌というもので、他の部位への転移あり、手術は不可、抗がん剤放射線治療で少しでも癌を小さくしましょうね、という治療方針になる。


「もっと早く発見できていれば良かったのにね」という言葉を、医師やソーシャルワーカー、親戚など、多くのひとから家族がかけられてきた。
当人たちはお悔やみの気持ちを込めて言ってくれているのだと、重々分かっていたのだけど、自分からすれば「なぜもっと早く発見できなかったのか」と責められているような気持ちによくなったのも事実である。


そんなことは家族がいちばんよく考えている。ずっと前から母の体調は悪く、いよいよ病院に連れていくという段では衰弱しきっていて、「きっと命に関わる大病に冒されているはず、おそらく癌か何かだろう」と思っていた。
そんな状態になるまで、病院に連れていくことが出来なかったことには、どうしようもない複雑な理由があって、その大きな要因は母が長年患っていた精神疾患であった。




**

2017年春、家族から「母の様子があまりにもおかしいので助けてくれないか」と、連絡が入った。どうも体調に異変があるのに、頑なに病院に行かないようである。



病院嫌いの人間というものは世にたくさんいると思うが、母の病院嫌いは非常に根が深い問題であった。


詳しくは後編で述べるが、母は第1子を出産した頃に精神疾患を発症し、以降 常に自身の精神に人生を狂わされ続けてきた、と言っても過言ではない生活を送ってきた。
母の病気は、ざっくりまとめると双極性障害統合失調症を混ぜたようなもので(病院により診断名が異なるので断定できない)、躁が酷いときは目も当てられないような異常行動を繰り返し、そのせいで、何度も総合病院の精神科に措置入院医療保護入院をさせられてきたのである。



措置入院医療保護入院とは、精神疾患の患者において、自他への危険が明白な場合において行われる、いわゆる「強制入院」というものである。
自分自身、何度もこの入院に立ち会ってきたけれど、はっきり言って本人にも周りの人間にとっても、精神的にかなりしんどい入院です。
所定の手続きを経た上で、身体の自由を奪う、人権侵害グレーゾーンとすら思えるような鬼の所業。本人のためなので仕方ないとはいえ、騙し討ちのように嘘をついて病院に連行する、それに対する罪悪感は常にあった。



母は毎度頑なに入院を拒否していたので、強制的に入院させざるを得ず、大勢の看護師に無理やり拘束され、投薬をされ、無理やり自由を奪われての入院となる。
意識が戻った時には独房で拘束されている、医師が許可を出さなければ集団部屋に戻ることも出来ないのだ、と母は何度も泣いて家族を謗った。
心から気の毒だとは思ったけれど、自発的に入院させることは不可能であり、自傷他害、最悪の場合は自殺もしかねないような状況なので、家族は割りきっていた。精神病の母と長年付き合ってきた私たちは、良くも悪くも非常にドライに対応していたと思う。



こうした経緯から、母は「病院」と聞くだけで最悪の記憶をフラッシュバックし、「また私をあんな地獄に放り込む気か」「政府に人体実験されている」などと興奮して暴れ、手をつけることが出来ない状態になった。これが、癌の発見が遅れた最大の原因だったと思う。母の不運を思うと、流石に胸が痛くなるものがある。




***

家族からの要請を受けて、わたしは1年半振りに実家に足を運ぶことになった。
というのも、自身の大学卒業と同時に、身の危険を感じて実家とは完全に縁を切っていて、親には一生会う気もなかったのである。



就職先も決まり卒業の目途もついた大学4回生の冬、母の精神状態は非常に悪かった。
毎日電話してきては泣き、バイトの時間だから切るねと言うと「そんなバイト辞めろ!」と激昂し、愛想を尽かして少し連絡を無視すれば下宿に押しかけ、警察に勝手に捜索願を出したり、「働いたら親に毎月金を寄こすのが当然だ」と責め寄ってきたり、勝手に私を保証人に立てて契約書を捏造したり、それはもう、家族のなかでも比較的温和で我慢強い精神の持ち主であると自負している私から見ても、目に余る程であった。



3月末、ついに私の堪忍袋の緒が切れるときが来たのだ。

母は卒業式に包丁を持って訪れた。
また、就職先に電話をかけて妄想を延々喚き散らした。その話は人事部長まで届き、大変厄介ごとになったりもした。
今までは「病気だから仕方ないかな~」とギリギリ許容してきた母のことを「自分の人生が取り返しのつかないことになっては困る」と完全に切り捨てる決心が固まってしまったのである。
以降一切連絡を無視、実家とは完全に縁を切っていた。下宿も引っ越して、新居の住所は教えなかった。




****

正直、親のことは「自分の人生は自分の責任で生きてください」と突き放していたし、病気だろうが何だろうが知りません、くらいに思っていたくらいだった。

しかし、心配なのは残りの家族のことである。特に姉兄に関しては、自分と同じ境遇として気の毒に思う部分が多々あったし、歪みのある家庭環境ゆえ、助け合ってきた分だけ何かと恩義を感じていることは多かった。
彼らに負担を丸投げにする訳にはいかないので、重い腰をあげて実家の扉を叩いたのだった。





久し振りに訪れた実家は、まずマンションの廊下の前に腐臭が蔓延し「これマジで人間死んでない?」という不安が頭をかすめる。
自宅の扉を開けた、その先は地獄だった。
人間が耐えられるレベルを超える腐臭が私たちを待ち受けていた。家の至るところが糞尿血塗れなのである。生き地獄とはこのことか。
ちなみに、父はこの部屋のなかで「鼻詰まってるから分からんわ~」と言いながら平然と焼き鳥を食べていた。怖すぎる。
※ちなみに後日これを大掃除したときが人生で一二を争うほど辛かった。



母は衰弱した状態で風呂の湯舟で歌をうたっている。暑いから、といって水風呂に半日くらい入っているらしい。「アイスが食べたい」と言ってきかないので、仕方なくアイスを食べさせながら病院に行こうと説得した。

その後、救急車を呼んで搬送してみたものの、病院についてみるとまた激昂、数時間に渡る説得のかいもなく暴れ倒し、「患者の同意がないと検査は出来ないし、精神科は救急では見れないんです」と困り顔の医者に追い返されて途方に暮れた。CTやMRIすら取れず、せいぜい点滴が出来たくらいだったような気がする。



こうなれば、また精神科入院しかない。
何度も精神科に入院させたことがあるといっても、これは毎度のことながら本当に大変な作業だった。
経緯は煩雑すぎるので省略、今回は役所や警察、かかりつけの精神科の先生に協力していただいて、荒業で精神科に入院させることに成功した。その過程が非人道的なものであったとしても、それ以外に妥当解はなかったように思う。(詳説すると気分を害するひとが絶対に出てくると思うので、書かないことにします)



一度入院させてしまえば、やるべき手続きや面談などは莫大ではあるものの、ある程度流れに沿ってすすめていけば自ずと道は見えてくる。
幾度かの転院を経て、ようやく正式に癌の診断が下された時には11月、季節はすっかり秋になっていた。



※後編に続きます

韓国旅行記 2019/9/4-6

この3日間、韓国へ旅行に行って来ました。


海外旅行は人生2度目。10年前に高校の修学旅行でイギリスに行ったとき振りで、そのときは体調が悪く眠ってばかりで記憶が薄かったこともあり、自発的に海外に行くのは初めて。色々下調べするのも楽しかったな。


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1時間半のフライトを熟睡し通してしまい、機内食が食べられず本当に落ち込んだ岡本


自分の周りには、仕事で海外に駐在したり出張に行ったり、留学経験があったり、何度も海外旅行をしている友人も多く、こういった初心丸出しのblogを書くのは少し恥ずかしくもあるのですが、忘れちゃうのももったいないので記しておくことにします。




◆「そもそもなんで今韓国に行くの?」

ここ1ヶ月で周りのひとによく言われました。
特に最近は日韓関係がよろしくない、というニュースが多く、Twitter上では多少のヘイトスピーチが散見されたり(本当に悲しいです)、なんとなくただならぬ雰囲気があったように思います。いま韓国行くのは危ないし頭が悪い、というようなことを言ってくるひともいて、少し嫌な気分になったりもしました。その思考自体は分からなくはないのですが。
ちなみに、家族は普通に明るく送り出してくれたので「あ~~ 良いひとたちだな~~」という気持ちになった。本当に。


今回の旅行は、親しい友人が韓国に留学したことがきっかけでした。
彼女は現在ソウル大学に留学しているのだけど、その子は韓国という国や文化に対して愛があって、いつも話を聞く度に楽しい気持ちになります。
「行ってみたいな~」「案内しますよ~~」という安請け合いで10年振りにパスポートを取り直して遊びに行くことに。パスポートって値段高いですね。
自分は元々金銭的に貧しめの価値観の人間なので、「海外に行けるくらいになんとか懐の余裕が出て来たのだなぁ」としみじみするなどしました。
せっかく10年期限のやつを取ったので、20代のうちにちょこちょこ海外旅行できたら良いなと思っているよ。



◆韓国旅行記~そぞろ街歩き~

2泊3日で旅程を定めて早々と飛行機は押さえたものの、どの街に行くか決める段になって、計画力の無さが露呈。旅行雑誌的なものは2冊ほど購入して読んだのだけど、まぁ全く頭に入ってこないし、街同士の距離感も掴みきれない。みんな海外旅行のプランどうやって決めてるんだ……。


取り敢えず普通に美味しいごはんが食べられて、街をウロウロ出来たら良いかな……あとサウナに入りたい、というくらいのゆるゆるな感じで、友人のすすめを受けて一日の流れを決めていきました。頭が上がらない!



行った場所は明洞、新林、龍山、弘大。
全然 街にもよるのですが、汚い街は「新宿の数倍臭いな!!」という感じでした。
街やひとの雰囲気が日本と似ていて、平行世界に来たような感覚。よく見たら違うところもたくさんあるのですが。


個人的に気に入ったのは、店員の接客などが適当で雑なところ。愛想なかったりずっと携帯いじってたりして、でも別にさほど問題はないので、なんとなく気楽な気持ちになりました。
あと、電車やタクシーの交通費がやたら安くて「どういう仕組みなんだ……」と思った。店に入ればwi-fiがほぼ必ず飛んでいるのも便利だったし、食べ物も美味しかった。



この3日間で最もすきになった食べ物(というか調味料?)はヤンニョム。
ヤンニョムというのは、甘辛い味噌のようなもので、毎日食べたのだけど、食べる度にますます好きになっていく。

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ヤンニョムチキン。写真でもう美味しい。


最初は「エビチリの味(?)がして美味い!!!!!!」と騒いでいたのですが、味を覚えてからは「ヤンニョム最高…………」となりました。



あとはサウナがとても良かったですね。
チムジルバンと呼ばれるスーパー銭湯に行ったのだけど、24時間営業で睡眠室があったり、フロントでスーツケースを預かってくれる店も多かったり、チムジルバンに泊まる旅客も結構いると聞きました。

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写真左の"-14℃"と書かれている扉は冷たい部屋へと続いている。サウナ→氷部屋で永遠に過ごせる。


今回は龍山のドラゴンヒルスパに行ったのだけど、サウナの種類が多くて楽しかったな。ソウル駅近辺のシロアムサウナも良いと聞いたので、次はそこに泊まりたいな~と思っている。
ちなみに今回はビジネスホテルにツインベッドで泊まったのですが、2泊3日で2人併せて13000円だったので、それも安くてびっくりした……。



◆韓国と日本のこと

日韓関係や反日運動についての昨今の動きを見ながら、もちろん少しは不安を抱きながら訪韓しましたが、自分は韓国で嫌な目に合うことは全くなかったです。
バスの中に日本製品不買運動のビラが貼ってあったりはしたけど、別に日本語で会話して過ごしていても変な目で見られたりしなかったと思う。


飲食店で、服屋さんで、本屋さんで、駅や道端で、「日本人?」と優しく声をかけて貰ったことがたくさんありました。かたことでも、日本語で歓迎の意を示してくれたり、日本に興味や関心を持ってくれていて、日本語を勉強しているだとか、日本の文化がすきだと伝えてくれるひともいました。韓国のひとだけじゃなくて、ソウル大学のカフェで出会った中国出身の留学生の男の子もそうで、嬉しくもある反面、「自分って全然他国に興味関心を持ってこなかったなぁ」と恥ずかしくなる部分もありました。


京都に住んでいると、外国人観光客は毎日風景の一部のように目にするけれど、正直「ここ数年観光客が増えてしんどいなー」くらいの感想しか抱いてこなかったような気がします。
道を聞かれても、精々答えるのが御の字くらいで、歓迎の気持ちを持って接したこととかなかったなぁ 。愛想よく答えられていた自信もないし。
観光産業を持て囃してるわりには、精神的なホスピタリティみたいな部分が育っていない気もするような。もっと広く優しくありたいですね……。



◆おわりに

楽しい2泊3日を終えて、帰路の飛行機・電車内でblogを書いています。


自分の旅行のスタイルはいつも、無理せずのんびり、最低限の下調べはした上である程度行き当たりばったり、という感じです。今回もそう。


なんだかんだ喫茶店等でダラダラ茶をしばいている時間も多く(数えたら3日で7回10杯)、わたしはそれが好きなのです。本も1冊読み終えた。
平素は予定を詰め込んでバタバタ過ごしていることが多いので、非日常だからこそゆっくり出来るという。


旅行、そんなに頻繁には行かないのですが、なんとなく必然性が感じられるというか、何かと大切な気付きを得ることが多いものです。目的とか意味とか、基本的に先立つものではなく後についてくると思っていて、まぁ別にそもそも意味とかなくても良いのだけど、「なんで行くの?」と聞かれても「直感的に行きたいから」以外の何物でもない。というのが個人的な旅行観だなと再認識しました。


今夜眠りについて、翌朝起きたら、スーツケースの中身を出して洗濯機を回し、スーパーで食材を仕入れるところから、しっかり日常を取り戻していく。日常も非日常もどちらも大切にしたいですね。


良い3日間だったな。

さよなら、もちもちくん

七夕になると必ず思い出すひとがいる。


文学部で同期だったもちもちくんの誕生日は7月7日だった。


 


彼が亡くなってから、もう2年も経つけれど、私にはいつまでもその実感がない。もちもちくんは26歳にならなかった。いまだにFacebookでは、彼の死を知らないひとが「誕生日おめでとうございます!」と書き込んでいるのが流れてきたりして、少し複雑な気持ちになる。ふと、もちもちくんのアカウントを辿ってみてみると、見慣れたその顔が少し幼く見えて、われわれは歳を取ったのだな、などと思った。


 


共通の友人たちが、もちもちくんのことを偲んだ呟きをしているのを見て、みんな同じ気持ちなのだと安心していたよ。


私は神奈川であった通夜葬式に行けなかったから、全然実感がわかないままで、なぜあの時、仕事を休んで参列しなかったのかと、いまでもなんとなく後悔したままでいる。大切なひとの冠婚葬祭は何があっても駆けつけなきゃいけないものだと今なら分かる 。


「家系ラーメンうまいンゴ」と いつもの調子で、ラーメンの写メつきのLINEメッセージでも送られてくるような気が、今でもしてしまうんだよな。


 


大学に入学した当初、自分はたいそう陰気な人間だったので、文学部にあまり友人がいなかったように思う。そもそも、ほとんど大学に行っていなかったし。


もちもちくんは、軽音サークルか何かの新歓で出会って以来、なにかと気さくに声をかけてくれた。授業の教室とか、中央食堂とかで。


正直、最初は彼のバリバリの関東弁に慣れなさすぎて「なんてキザな喋り方をするやつなんだ」と妙な気持ちになったりしていたし、友達も多そうだったから「陽キャだなぁ」とちょっと引いた目で見たりしていたけど、本当に分け隔てのないイイ奴なのだと、まもなく分かるようになった。(書いてて思ったけど、自分卑屈だな!)


 


自分が文学部に居場所を持てるきっかけをくれたのは、もちもちくんだったと心から思う。


(そういう意味ではかなりピロティにもかなり感謝している、彼は生きているけど)


他人の顔も名前も全く憶えない岡本だったけれど、もちもちくんがことあるごとに呼んでくれた飲み会で、少しずつ友達が出来た。たまには少し不平を言いつつも、いつも幹事とかやってくれたよなー。今も文学部のメンバーで飲み会をしたら100パーセントに限りなく近い確率で、もちもちくんの話題がのぼります。


 


みんなのなかで、彼は本当に生きているんだよな。出町柳の鳥貴族で、北白川の福仙楼で、丸太町のリカーマウンテンで、わたしはやっぱりもちもちくんのことを思い出す。


彼がくれた色々なものは、全然言葉でうまく表すことが出来るようなものではないのだけど、自分にとって大切な友人だったし、今もそうだよ、と思う。


 


眠れない夜に、個人的なblogを書いてしまい、あとで少し恥ずかしくなるかもしれない。


明日も仕事なので、そろそろ眠りにつくことにします。なんだか、こんな日は夢で逢えるような気もするよな。友達のことを忘れずに、思い出と一緒に歳をとってゆけたら、それはこの上なくうれしいことだし、岡本は、そうありたいね。

Fragileは活動を再開します

こんにちは、岡本です。

5年振りにblogを引っ越しました。
以前は結構定期的にダラダラと文章を書いて、更新告知もしていなかったのですが、
(それも好きだったんだけどね!)
ちゃんと読んで貰いたいな、と思うようになったので、伝えたいことを更新していこうと思います。



◆Fragileの活動再開について。

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Fragileは2019年4月24日(水)心斎橋JANUSでのLIVEから活動を再開します!!!
それに伴い、サブスクリプションも解禁しました。iTunesSpotify、LINE MUSIC等々、色々な場所で聴けるので是非聴いてほしいです。

https://www.tunecore.co.jp/artist/Fragile


弾き語りの活動や前にやっていたバンドで岡本を知ってくれている人も多いと思うのですが、
Fragile自体は2008年に結成された奈良のバンドで、2013年に大塚絵美さん(現palpurple)脱退と同時に活動休止、
2014年に私が加入して活動を再開しました。

それから4年間の活動を経て、2018年5月京都GROWLYでのLIVEを以てBa,Drメンバー脱退&活動休止。現在に至る、という感じです。


去年の活動休止になったタイミングで、本当はすぐにメンバーを探して次に向けた動きをすべきだったのかもしれないけれど、その時は自分が親の介護で泥沼にはまって瀕死限界状態だったので、南メンバーに「休みをください」と言って完全に休止しました。暫くは連絡もろくに取っていない状態で、かなり迷惑をかけたな……と思います。

介護して家族を支えながら会社で働いて、家庭の都合で頻繁に仕事休む、迷惑がられる、毎日会社にも病院にも介護系施設にも頭下げて謝ってばっかで、毎日携帯も鳴りっぱなしで本当にキツかった。

常にキャパオーバーしていて、睡眠時間も足りてないし訳が分からなくて、バンドをするとか1mmも考えられない状態でした。気にかけてくれてるひとたちにも連絡来るだけでストレスなのでやめてくださいみたいなことも言ったと思う。その節は本当にすみませんでした……。


今年バンドで活動出来るのがいまでも夢みたい。
新メンバーとしてDr.マサヒロ氏が加入してくれました。ライブハウスでの遭遇率が高いので趣味が合う人だなと思っていた。私は彼のドラムの音が好きで、一緒にバンドやれるのが嬉しいです。ライブ観てほしいなぁ!

ベースは現在募集中で、サポートの方々に力を借りています。感謝しかないです。
我こそは!という方は自薦他薦問わず連絡ください。今のところ練習場所は奈良の新大宮。


[LIVE予定]

4/24(水)@心斎橋Music Club JANUS
experiment「男女ツインボーカル

Fragile
AOI MOMENT
meh meh white sheeps
EARNIE FROGs

OPEN 18:30 / START 19:00
ADV¥2300 / DOOR¥2800 (D別)
出演は最後21時過ぎ~

5/3(日)@新宿Motion⇄Marble
“SHINJUKU ALLRIGHT!!!vol2”

otori
THIS IS JAPAN
Teenager Kick Ass
RiL
Fragile
yEAN
逃亡くそタわけ
ゲスバンド
カタカナ
ざくろ
宇宙団
永原真夏+SUPER GOOD BAND
Emily likes tennis

1年間活動休止してしまったけど、立ち止まって考えて得たものも多かったと感じています。

生活することの大切さとか、自分の時間の作り方とか、健全な精神の保ち方やバランス感覚。
去年は金が無さすぎて気が狂いかけたのですが(医療費と葬式関係)、なんとか乗り越えて並のことでは動揺しなくなりました。

追い詰められてどうしようもなくなったときに、自分をギリギリのところで支えてくれたのも音楽でした。

誰かの救いになれるような音楽に。

Fragile、観たことないひとも気にかけてくれると嬉しいです。気にかけて貰えるように頑張ります。
blog 読んでくれてありがとう……。
ちょこちょこまた更新しますね。