母1回忌によせて―精神疾患と闘う<後編>

前編はこちら

owarin.hatenablog.com

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自分が物心をついたとき、すでに母の様子はおかしかったように思う。


人生の記憶の始まりは、3歳、母方の祖父母の家で暮らしていた頃に遡る。その家で私は母と一緒に住んでいたけれど、印象がとても薄い。あとから聞いた話では、自分は祖父母のことを親、母のことをお手伝いさんみたいなものだと思っていたそうだ。
母はいつも縁側で音楽を爆音でかけて、祖母に近所迷惑だと怒られていた。大音量で聴く浜田省吾のJ.BOYが好きだった。

 

―― J BOY  打ち砕け、日常ってやつを。乗り越えろ、もう悲しみってやつを ――

 

今でもこの曲を聴くと、私は故郷を想い出す。

 

 

和歌山県の太平洋沿岸、人口が1万人にも満たない町。自然以外の娯楽など、ほとんど無いに等しい。年の近い子供がいた記憶もない。
そんな小さな町だったけれど、ご近所のおばちゃん達はよく可愛がってくれたし、祖父母のことが大好きだったので、幸せな幼少期だったと振り返る。母はよく海へ散歩に連れていってくれた。少し遠いけどジャスコにも。ゲーセンでメダルゲームに熱中するあまり、母は私を連れ帰るのを忘れたこともあって、川沿いをひとりで歩く私がご近所さんに保護されたときは、こっぴどく祖父に叱られていた。

 

断片的な記憶のなかでも、おぼつかない振る舞いが印象的な母。彼女は療養のために実家に帰ってきていて、事情があり、残りの家族とは別に暮らしていた。
「ゆりちゃんには離乳食をあげた記憶がない」「保育園に通わせるのを忘れていた」と後に語るを察するに、とても子育てが出来る状態ではなかったのではないか。

思えば、私が0歳のとき、引っ越してきたばかりの神戸市で阪神淡路大震災に被災するなど、本当に母の人生は苦労が絶えなかった。悪い意味で引きが強く、大事な決断が苦手。本当は優しいひとなのに心が弱く、すぐ自己犠牲に走ったり、破滅への道を疾走したりする、それが母というひとだった。

 

 

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やがて、私たちは祖父母の家を去り、家族全員で暮らし始める日が来る。車で1時間ほど離れた市街地へ引っ越したのは、私が5歳になる頃だ。

 

実家を出た母は、最初の数年、不器用ながら家事や育児に一生懸命だった。この頃の暮らしは明るい思い出が多く、住んでいた地域自体が家族全員にとても合っていた気がする。ご近所に仲の良いママ友が何人かいて楽しそうだった。家族ぐるみの友達もできて、その家族と私は今でも親交が続いている。

 

 

そんな平和な暮らしが続いたのも4年くらいだっただろうか。
小学4年になる春、父の転勤が決まり、家族は再び神戸に転居をすることになった。
その後、母は本格的に精神状態を悪化させていくことになる。

 


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当時10歳だった自分は、母の奇行にショックを受けていた。


夜な夜な叫ぶように窓の外に向かって怒鳴り続けたり、はたまた通学路で服を脱いで寝ていたり、外で知らないひとに現金を配ったり、塾に急に怒鳴り込んで来たり、学校から帰ったら見知らぬ暴走族の男性を家に連れ込んでいたり、子供を連れて深夜コンビニに出掛けタムロして朝まで帰らなったり、なんだかめちゃくちゃだったように思う。心配した同じマンションのおばちゃんや大家さんの家に泊まらせてもらったこともあるぐらい。


そうこうしている間に、母は初めて精神科に入院することになる。誰の目で見ても、明らかに精神疾患だった。
入院している間は家に少しばかりの平穏が訪れたものの、洗濯や飯の準備を覚えなければいけなかったし、病院の公衆電話から毎日精神不安定な電話をかけてくるのが嫌で、電話線を抜いていたら父や親戚に怒られたりもした。この頃の記憶に関しては、光景としては覚えているけれど、そのとき自分がどういう感情を抱いていたのかはあまり思い出せない。

 

この頃から、自分は母に対して「親」という感覚で接することが出来なくなっていく。「ママ」「お母さん」とも呼ばなくなっていった。その態度がまた母を傷つけていたのではないかと思う。

 

親元から遠く、友達もいない土地。専業主婦として子供3人の面倒を見るのは、かなり精神的に負担だったはずだ。父は仕事が忙しいといって帰って来なかったし、頼れるひとは誰もいなかった。その後も、また父の転勤に伴って引っ越ししたりしたものの、やはり母は病状は悪化するばかりで、またしても精神科への入退院を繰り返していた。

 


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母が入院を繰り返すなか、わたしは姉兄と3人、子供だけで暮らした。金銭管理や炊事洗濯は難なくこなせるようになっていた、14歳の頃である。

このとき、父は滋賀に単身赴任していて、わたしたちは兵庫県の南西部にある高砂市に住んでいた。父にはあまり会わなかった。

衣服の替えやお小遣いを持って病院を訪ね、面談でうかがった母の病状を父に報告したり、中学生にしてはしっかりしていた気がする。学校はやる気がなくて、ろくに行かなかった。こんなに苦労して頑張って生活をしているのに、何も事情を知らない教師たちに不良や問題児扱いされるのが不服だった。友達も少なかった。

 

 

調子が悪い時の母は、夜中に暴れて「死にます!!!!」といってベランダから飛び降りようとしたり、「金をよこせ」といって血走った眼で包丁を投げてつけて来たり、妄想に取り憑かれて毎日方々電話しては激昂したり、1日3箱くらい煙草を吸っては灰皿を使わずに布団を焼いていたり、言い出せばエピソードは枚挙に暇がない。

完治するまでしっかり入院治療しておけばよかったのに、医療費が高すぎるからと、多少症状が落ち着いたら無理やり退院させていた。あれは良くなかった…と思うものの、個室の入院費用が膨大だったので、仕方なかったという父の気持ちもわかる。


この頃には、もはや母は一切の家事をしなくなっていて、自宅で廃人のようになっていることが多かった。

 


…こんな風に書き連ねると、親として最悪だ、と感じられるかもしれない。10代の頃は自分もそう思っていた。けれど、結局 母に根本的な問題や責任があった訳ではなくて、本当に運や境遇や環境が悪かっただけで、ボタンの掛け違いで誰にでも起こりうることなのだと思う。


家族のプライバシーに配慮して大幅に省略しているけれど、「正気ではいられない」と思うような事件は非常に非常に多かった。
崩壊している家庭にありがちな、暴力、金銭、夫婦関係、異性問題、親戚関係、子供の問題、などである。さすがに、公共の場では一生口に出来ないなと思うようなことも、本当にたくさんある。封印するあまり忘れたことも多分ある。墓まで持っていくタイプのやつである。色々な出来事が引き金になって、精神を混沌と狂わせていく。

 

 

もっと精神疾患に理解のある家族や友人に恵まれれば、これほど病状が悪化することもなかったのに。そんな風に思えてならない。父も祖父母も子供も、対処ばかりは身についたけど、病気を理解するにはかなり時間がかかった。その点においては、少し悔いが残るところがある。その時々で最善策を選び続けてきたつもりだった。


病気は初めのうちに適切な対応を素早くすること、理解者を持ち、毒になるひとは早めに遠ざけておくことが本当に大切。早く早く上手に逃げることが何よりも肝要だった、と痛感する。精神疾患が限りなく悪化していた母は、その後もずっと寛解することはなかった。

 

人生の幕を閉じるまで、母は精神疾患と闘い続けた。家族もだ。

家族全員に囲まれて、穏やかに看取ることが出来たことだけが、私たちにとっても、彼女にとっても、せめてもの救いだった。

 

あれから1年。

残された家族は、それぞれ波はありながらも、穏やかに自分の暮らしを生きている。

 

 

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今回、前編と後編に分けて、個人的な記憶や心情をblogに綴ってきた。


本当に、書くべきかどうか随分悩んだのです。精神疾患、家庭の問題など、非常にデリケートな問題に公的な場所で触れるということについて。考えてみれば、書かない選択の方がずっと簡単で、間違いないもの。
母が亡くなって1年経って感じたのは、人間の記憶は想像以上に風化するということでした。思い出すきっかけがないまま、砂に埋もれてぼやけていくような感覚。それは救いでもあるのだけど。残された家族たちも、かたちを変えて続いていく。自分が死んだあとも、世界はこんな感じだと良いな、と思う。

 

 

普通の親ではなかった。でも普通って何なのか。

マジョリティ側に立つ人間は、無意識にマイノリティを排除する。そのことばかりが、ずっと心に引っ掛かっていた。


同じ境遇のひとが見つけにくく、共感されることが少なく、歳を増すごとに口にすることも憚られる。それが何よりも辛い。正攻法も正解もない問題をひとりで抱え込むのは最悪で、自分の周りのひとにはそんな風になってほしくない。


穏やかな家庭に生まれて、今まで精神が切り裂かれる程の苦しみは経験したことがない、というひとも、人生のどこかで道がそれて、泥沼のような苦しみに踠く時期が来るかもしれない。自分の母が、そうだったように。

 

 

 

自分が親から学んだことのうち、いちばん大切にしていることは、他人に何かの役割を強要しないこと、です。親なのに、親子なんだから、とか、大人なのに、子供だから、男は、女は、とか。全然一般化できるようなことじゃないと思う。人間も状況も、ひとつひとつ全部違う。押し付けることなんて出来ないはず。

 


家族にも、友達にも、恋人にも、誰にだって、「こうあるべき」なんて一つも思わずに、自分を生きていられること。それを自分の一生をかけて、財産に出来たら良いな。

大切なひとを追い詰めないこと、出来るだけ誰かの逃げ場になれる人間でいたい。

簡単なことじゃないから、何度も後悔を重ねながら、ずっと心の中に置いておく。

 


大切なことをたくさん知ったから、私は自分の親や育ちを恥じたりなんて、もうしなくていい。2019年、生まれて初めてそんな風に思えるようになった。

 


25歳の自分の備忘録と、誰かの救いになることを願って。

 

 

 


R.I.P.